津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「梅の薫」耇姫様の事 (五・了)

2013-07-08 06:19:31 | 史料

 玄猪の御祝の節、御式の通り餅を御手づから人々江下し給ひけるが、其ノ席に見へざりける人々を部屋にて思し出シ給ひて、縫々の子ぞうと誰々にも遣せとのたまひて御世話あり、ほどこしをば常になく残りなく平らかになし給ふ事を好マせ給ひぬ。此年(文政九年)八月、大殿例ならず(病気)渡らせ給ひけれバ、君日に幾度となく伺ヒに出させ給ひ、御枕元に祈りの札守など有ぬれバ、まめやかに拝せさせたまう。ある時、人形二ツ三ツ持たせたまひて、大殿の寝させ給ふ御側により給ひ、中にも兼て秘蔵し給ひける人形にて、大殿の御胸の上を二三度撫させ給ひ、其人形をバ御襖の外に持出シ捨テ置キ給ひ、御部屋江帰りましましける。夫より後大殿の御異例速に快く成らせ給ひしかば、不思議成る事に云イ伝へて、只の御方にては渡らじとぞ申シける。此ノ比は、大殿の御祈りの為とて御神前に百度参りをなし給ひけるが、ある時、御部屋にて御側の人々、今日は大殿の御不例よほど御快く有ラせ給ふぃとはなしけるを、御遊びながらに聴カせ給ひ、御とゝ様おきい(病気)おきいハお宜ひかへ、お嬉しお嬉しとのたまひて悦びましましける。大殿の御異例御全快ましまし、御床揚ゲ御祝も済せられ、御庭江も御供にて御用あり悦バせ給ふこと大方ならず。

 次第に御知恵も増させられ、御慈悲深き事のミぞましましける。日ごとに大殿の御側にて御伽あり、狂言をバ替らず好マせ給ひて瓢の神・花折など云へる狂言殊に御心に叶ひ、人々に仰セて幾度となく御覧じ、扨、御部屋に帰らせ給へば、扇取出シて御舞あり、御相手しける人々に謡囃させ給ひて、世の中に月と日と釈迦と達磨と我斗りと云ウ小謡を能ク御覚へありて、かたことまじりに謡ワせたまいき。さゝやかなる御指もて、御鼻を押へましまして、余念なく舞ヒかなで給ふ。其ノ御ありさまの愛々敷ク渡らせ給ふこと、拙き筆には、書キつくしがたき。又、土車の謡に 一天四海波を打チ治メ給へば、国モ動カぬあらかねの土の車の我等まで道せはからぬ大君の御影の国なるをば、ひとりせかせ給ふが と云へるを、つゞき能ク覚させ給ひ、当殿(齊護)渡らせ給ひし折、御謡ありて御聴に入り給ひぬ。又ある時御舞有けるを、大殿襖の透より御覧じ、扨、襖をあけしめ給へば、君直に舞を御止めあり、片寄て御時宜し給ひ、御伽の人々にも時宜なさしめ給ふ。かく御敬ひをバ暫くもかゝせ給ハざりき。殊に寒き朝々大殿御神拝に入せ給ひしに、御跡より急ぎ渡らせ給ひて、大殿の御衣を取せられ、余りお多いと御意ありて、とゞめ奉り給ひぬ。是ハ寒き折り久しく神拝し給ハゞ、あしかりなんとの御心づかいにてかくハとゞめ給ひしなり。

 (文政九年)十二月廿三日ハ、殊に風もなく時渡りけれバ、余り能キ日和にて、何方へぞ参り度キと人々申シけれバ、おのゝ様(神仏)江参らふと仰セあり、只今より入せ給ふやと問ヒ奉れバ、あつた(明日)参るとのたもふ。御膳も常の通りに御上りあり、御夜食ハ七ツ過ぎ(午後六時過ぎ)に上らせ給ひしが、毎もより少し進ミ兼ネ給ひながら、さして替らせ給ふ御気色もましまさず、此ノ日はいろいろふしぎなる事ども仰セあり、七ツ時過ぎる比、御祝の間の雨戸しめける折、君いだかれ給ひて御出あり、地震戸をあけさせ給ひて、暫しが程外面を御覧あり、さあもふよしとのたまひて御部屋に帰りましまし、いまだ日も高かりしに、早ふまっく(真っ暗)に致セと仰セありて、人々を急がし戸をしめさせ給ふ。毎月の通り、今宵も御神前にて、おとなしやかにしばらく御拝あり、夫より御部屋に帰り給ふ。
 去りし御不例の後は乳をバ上り給ハざりしかバ、御床に入らせ給ふまへに葛湯を御上りあり、今宵は倉子(生母)にいだかれ給ひて、御心よく御遊びあり、常にハかゝる事をバなしたまわざりしが、いかゞ思しけん、乳をさぐりて御したしみあり。扨、かしづきの人添寝し奉るに、御足ことなふひへ給ひしかば医師に伺せ奉りしに、少し熱あらせ給ふよしなり。もがさにやあらせ給わんと、いづれも気遣ひ奉る。御薬きこし召て、またまた御寝ならせ給ふ御気しきなりしが、子の刻(午前0時)ばかりに、俄にふさがせ給ひしかば、大殿を初め奉り驚き騒ぎて御薬御灸など手を尽し給ひしがども、其ノしるしも見へたまわず、天よりなせる命数ハ人力の及ブべくなく、其ノ暁、子の下刻(御前二時)ばかりに終にはかなく成らせ給ふ。
 大殿の御嘆きハ云うも更なり。しばしが間にかくならせ給へば、人々も只夢の心地してまどひあへり。此時の御事ども委しく書留メ奉らんも、今更せまりて筆を立るに忍びず、扨止みぬ。
同く廿九日といふに立田山なる泰勝寺に葬り奉る。此ノ日ハ雪いとふりて、御路すがらのあり様さながら天より花を捧ゲぬると見へkっるよし、人々申シあへり。御葬式はいふもさらなり。七日七日の御吊(弔・異体字)言葉にも述べ尽しがたし。傳き奉りし女房達ハ云ふ迄もなく、大殿の近習の人々も日ごとに御廟に詣で在すがごとく拝し奉りぬ。中にも守り奉りし米田・そやの二人は、大殿江戸江登り給ひし其ノ跡までも残り居て、雨風の激しきこともいとわず、日ごとかゝさず詣デしが、御名残つきやらず、いよいよ信心になりて、ついに緑の髪をおろし、二人ながら尼となりて、名を無着・無染と改め、あたり近き村里にうつり住て、君の御跡をとむらひ奉りぬ。君に附添奉りし人々を初め御伽に出しおさな子までも御忌日御忌日には、草木の花實を思ひ思ひにたづさえて四とせ(四年)の今までも月をかゝさず御廟に詣で在すがごとく仕へ奉りぬ。
 かくありぬること、ひとへに此ノ君の御いとけなくましまして御孝心深く、御仁愛厚く、御心の附せ給ひ下をあわれミ給ふ事の切なる、実に大人も及ビがたくましませゆへならんと、いとありがたく覚え奉りぬ。

                                             

                                       耇姫(左)と御とゝ様(齊茲公・右)のお墓

 

                                                   (了) 

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