中路文書を調べていたら、なんと我が祖父さまの手紙が出てきた。消印がはっきりしないがどうやら明治23年のものらしい。とすると祖父さま廿歳のころのものであり宛名は中路信吾殿となっている。文中に克堂(佐々友房)のことが出てくるが、下働きでもしていたのだろうか。
佐々は西南の役では熊本隊に属して活躍するも捕らえられ、明治12年(1879)1月まで入獄、その後同心学舎(後の済々黌)を設立した。15年には政治結社・紫溟会が結成され顧問となり、明治22年1月熊本国権党を組織し帝国議会の開設に当たり衆議院議員に立候補して当選を果たしている。その翌年の書状である。
祖父は後(1899~)に東亜同文会の平壌日語学校の校長を務めるのだが、学校と東亜同文会の関係が切れた後も、1911年まで何らかの形で学校を存続せしめ関わっている。国立教育研究所紀要(昭和63年3月号 第115号)に掲載されている稲葉継雄氏の論考「旧韓末日語学校の日本人教師」によると、「日露戦争にも積極的行動を興した国士」とある。私が二歳の時に亡くなっているのだが、彼の生き様は要としてつかめない。そんな中でのこの手紙は貴重なものであった。破棄されずに残された中路家関係者に深甚なる感謝を申し上げる。