津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

金地院崇傳のこと

2013-07-11 15:26:49 | 史料

 家康側近の以心崇傳は、なんといっても豊家との権力闘争のきっかけともいえる、方広寺の鐘の銘「国家安康」「君臣豊楽」にケチをつけた人物として知られる。「武家諸法度」「禁中并公家諸法度」「寺院法度」など、徳川家幕政の基本となる諸法度を制定した人物である。しかしながら家康の死後は、秀忠・家光からは距離を置かれたようである。悪僧との評価も一方ではあり、「大欲山気根院僭上寺悪国師」などとも揶揄された。
寛永十年に亡くなるのだが、この「悪国師」という呼び方は、細川家史料によるとどうやら寛永六年頃の事らしい。
忠利が三齋の側近・貴田権内に宛てた寛永六年九月十三日の書状には
       一、金地院ゟ書状参候間進上申候事
       一、金地院へ十二月ニ 将軍様御成被仕候由申候    という文章が見える。 

十月廿四日の書状に次のようにある。

       金地院へ之御返事相届申候、金地院之儀江戸中名をつけ候て、山号・院号・寺号の名をハ不申候
       大欲山氣根院せんせう寺悪國師、如此ニ申候、何編笑止なる儀ニ御座候事       

金地院とも懇ろの付き合いを維持してきた細川家としては、思いがけない江戸庶民の反応に驚いた様子である。
榎本 秋の著「戦国坊主列伝」をよむと、「私腹を肥やすことなく、ひたすら無私の態度によって泰平の時代をもたらした名政治家」と評価している。
天下泰平の世の中に落ち着くと、この様な剛腕政治家は必要とされないのかもしれない。しかし彼が作った諸法度は多少の改変がなされるものの、徳川幕府の治世のバックボーンであった。 

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横島干拓関係資料

2013-07-11 13:00:18 | 史料

 7月2日の新聞報道で、横島町文化財保存顕彰会が「歴史の語り部・玉名干拓遺産ーここはむかし、海だった」というDVDを作成されたことが報じられた。
手に入れたいと思い早速ご連絡したのだがすでに残部がなく、改めてDVDを焼き直しして送っていただくことになった。
本日その他の資料と共にお送りいただいたのが、上記写真である。 

横島町の発展は干拓事業によって豊かな広大な農地を得て、一村が興ったと云って過言ではない。御内家(藩主)開きは細川家入国からすぐに行われ、家老有吉家の手により膨大な面積の干拓が行われた。この貴重な史料が作成されたことは、地域のみならずこらら干拓の歴史が広く理解されるには格好の資料である。関係者のご努力に敬意を表したい。(内容に一部をUPしたいと思うが、是はご了解を戴くまで差し控えたいと思う)

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