家康側近の以心崇傳は、なんといっても豊家との権力闘争のきっかけともいえる、方広寺の鐘の銘「国家安康」「君臣豊楽」にケチをつけた人物として知られる。「武家諸法度」「禁中并公家諸法度」「寺院法度」など、徳川家幕政の基本となる諸法度を制定した人物である。しかしながら家康の死後は、秀忠・家光からは距離を置かれたようである。悪僧との評価も一方ではあり、「大欲山気根院僭上寺悪国師」などとも揶揄された。
寛永十年に亡くなるのだが、この「悪国師」という呼び方は、細川家史料によるとどうやら寛永六年頃の事らしい。
忠利が三齋の側近・貴田権内に宛てた寛永六年九月十三日の書状には
一、金地院ゟ書状参候間進上申候事
一、金地院へ十二月ニ 将軍様御成被仕候由申候 という文章が見える。
十月廿四日の書状に次のようにある。
金地院へ之御返事相届申候、金地院之儀江戸中名をつけ候て、山号・院号・寺号の名をハ不申候
大欲山氣根院せんせう寺悪國師、如此ニ申候、何編笑止なる儀ニ御座候事
金地院とも懇ろの付き合いを維持してきた細川家としては、思いがけない江戸庶民の反応に驚いた様子である。
榎本 秋の著「戦国坊主列伝」をよむと、「私腹を肥やすことなく、ひたすら無私の態度によって泰平の時代をもたらした名政治家」と評価している。
天下泰平の世の中に落ち着くと、この様な剛腕政治家は必要とされないのかもしれない。しかし彼が作った諸法度は多少の改変がなされるものの、徳川幕府の治世のバックボーンであった。