「世減の規矩」についてお尋ねをいただいたので、改めてその概略をここに記す。
宗孝公の不慮の死により家督相続した重賢公は、入国早々の宝暦六年閏十一月次のような「達」を発している。
士中知行代々相續之儀、大體當國之高に應し古代之定有之處、中古より我等に及迄新知家禄等も總て世禄に申付來候付、
當國不相應之高に至り、後來勲勞之者有之とも可賞禄乏ク數世背前代之本意候、依之慶安二年以前之知行は舊故之家ニ
付無相違相續せしめ、右以後之新知は代々相續之高を斟酌し可申付候、尤子孫抜群之功勞によつてハ舊故之家に准し、或
ハ子孫の材(ママ・才)能によつてハ強に世減すへからす、新地(ママ・知)加禄之儀ニ付ては近年申渡置候趣も有之候條、何レ
も為存申聞置もの也
宝暦六年閏十一月御印
これにより慶安三年時新知の家については次のように改められた。
慶安三年以降新知の家(旧知の家は対象外)
5,500石~4,500石 500石減
4,400石~3,400石 400石減
3,300石~2,200石 300石減
2,200石~1,200石 200石減
1,100石~ 600石 100石減
500石~ 150石 50石減
100石新知 御擬作 という風に各家の家禄が減らされた。
慶安三年というボーダーラインは、「慶安年間を以て治乱の境界」とし、旧知の家は「元亀天正以来矢石を冒し、干戈を踏み、死生の間を馳突して君主を擁護し、或いは武勲抜群の誉ありしものゝ子孫」であるとして一線を引いている。
「宝暦四年此ヨリ減候知行・60,094石程、同28,770石程、右同蔵米擬作取・30,610石程」とある。減知約12万石、重賢の宝暦の改革の第一歩である。