津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

耇姫様の事・付けたし

2013-07-09 12:15:08 | 史料

 泰勝寺に行くと、父・齊茲公と兄・齊樹公に挟まれるようにして耇姫のお墓があるのに気付かれることだろう。
そして私はあの可愛らしい絵図を思い出すのだが、その突然の死は何が原因であったのだろうかと首をかしげてしまう。
いわゆる突然死であろうか。

「梅の薫」を読むと、耇姫の際立つ聡明さと、幼いながらも周囲を思いやる貴人の風格を見る思いがする。
蓑田勝彦氏が「熊本歴研・史叢」の2008年11月・第13号に「細川耇姫と荒仕子・清七」という一文を掲じておられる。
永青文庫「機密間日記」から、日を追っての齊茲公と耇姫の触れ合いを取り上げている。引用させていただくと・・・・
     ・文政7年5月25日  浜町様(齊茲)・・・耇姫様御同道御近辺御歩行、山城(松井家)方茶屋・一日亭へ
     ・同年   6月     浜町様、来る六日・・・耇姫様御同道、二丸御屋形へ御移徙
     ・同年   6月 2日  浜町様、耇姫様御同道、本妙寺三番神へ御参詣、淨池院殿御廟・小山田御庭妙見社へ
     ・同年   9月 6日  御両殿様(齊茲・齊樹)明日・・・耇姫様御同道、小山田腰掛それより本妙寺へ
     ・同年  10月28日  浜町様、耇姫様御同道、小山田御腰掛、それより本妙寺淨池院殿御廟へ御参詣    等と有る。

この時期耇姫は2歳(満1歳3ヶ月~8ヶ月余)であり、兄・齊樹公もまだ健在の頃である。


「梅の薫」にも記されているが、本妙寺や小山田腰掛がお出かけの決まりコースであったようだ。

蓑田氏の一文の「荒仕子清七」は柿原村(現花園町柿原)の百姓で、この時期二ノ丸の御屋形の下働きにでも出ていたのだろうか、耇姫の突然の異変を聞きつけ、薬師参りをはじめたというのである。以下蓑田氏の現代風に書かれたものを引用すると
     梅珠院様(耇姫)御不例の節、清七は兼て近辺に出入りしていた。餅搗きか何かの時加勢に行った際、梅珠院が危篤だと聞いてことのほか仰天
     して、そのまま直に裸になって惣身に水を懸り、着物を着て薬師(東光寺)に走って行き、また裸になって、人目を忍ぶつもりであろうか、手拭で顔
     を包んで題目を唱え、耇姫の回復を祈ったという。その日は特に寒気も厳しかったが、下賤の者にしては奇特な行状である。 

このことは後江戸白金邸に在った齊茲公の御聴に達し、刀御免となり切米三石二人扶持の「白金親御屋形御裏御台所直抱」という異例の決定がなされ、清七は江戸に登ることになった。
このことからも、耇姫が様々な人たちに愛されていたことを伺わせている。 

コメント
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