「敗者の日本史--大坂の陣と豊臣秀頼」を読んでいる。
「BOOKデータベース」による内容紹介には次の様にある。
「秀吉政治の「後継者」争いだった大坂の陣。関ヶ原合戦以後も西国を掌握できなかった家康権力の脆弱性を実証しつつ、“敗者”秀頼がこだわった大坂の有する重要性を指摘。首都をめぐる豊臣・徳川最後の攻防戦を描く。」
細川氏ウォッチャーの私としては、どうしても細川興秋や米田与七郎などを追い掛けてしまう。その他大坂陣以後細川家に召し抱えられた人などについても同様である。上記二人については引用史料のせいか、まことに遺憾な記述がある。
興秋については「大阪御陣山口休庵咄」を引用しているが、「表2」の「主な大坂参集の牢人衆」ではその軍勢衆を5~10騎とし「小身(細川忠興とは別人)」とし、「表3」の「主な秀頼の家臣」では知行高を5,000石・軍勢数2,000人とし備考欄では「忠興次男」と紹介している。
米田与七郎(興季)については、「塙団右衛門・蘆田作内(宇喜多氏旧臣)・米田興季・横井治右衛門・山内権三郎らはじめ、合計一二(12?)騎の物頭と雑兵の数人が討取られた」とあり、興季は戦死者とされてしまった。
その他の記述についてはさておくが、大変興味深い記述があった。
「大坂方の牢人募集」の項( p139)に、(慶長十九年カ)七月四日付の宛所なしの大野治房の書状(大坂城天守閣所蔵文書)として、肥後國の武将・香雅楽という人物を招くために動いていることが判る。
さてこの人物が誰か?ということだが・・・・・・さてさて見当もつかない。これはと思われる人物をご存知であればご教示いただきたい。