津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

お安く読む・文春文庫「龍馬史」

2013-08-11 16:56:34 | 熊本史談会
     龍馬史 (文春文庫)
 
       文藝春秋

本の内容

坂本龍馬を斬ったのは誰か?黒幕は誰か?幕末最大のミステリーに歴史家・磯田道史が挑む。史料の丹念な読解と巧みな推理によって、ついに謎が解かれた。論争に終止符を打つ画期的論考。

目次

第1章 自筆書状から龍馬を知る
第2章 龍馬、幕末を生きる(龍馬は一日にしてならず龍馬はなぜ龍馬になっていったのか
     脱藩への布石を追う
     「龍馬の海軍」はいかに創設されたか
     なぜ龍馬は「武士の壁」を越えられたのか ほか)
第3章 龍馬暗殺に謎なし(新撰組黒幕説—事件直後に疑われた
     紀州藩黒幕説—動機がもっともあった
     土佐藩黒幕説—成り立たない犯行動機
     薩摩藩黒幕説—常に疑いの目でみられた集団幕府内の立ち位置 ほか)

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井芹川・陣橋

2013-08-11 09:27:46 | 史料

 かって私が住んでいた花園地区には、井芹川の古い川路が小さな流れを残していた。古い絵図を見ると川は大きく蛇行して熊本城の北西部の石垣下を流れ、段山を迂回して横手地区に流れ妙解寺の前で坪井川と合流していた。二ノ丸から薬師坂を下りたあたりにこの井芹川が流れ込み、ここに陣橋と云う橋があった。井芹川は河川改修により流路が変わり直線化され、かっての井芹川はわずかに小さな水路として残っているが、この陣橋がその名を残しているかどうかは未確認である。いずれにしろ当時は牧崎・島崎方面に行くための重要な橋であった。

その陣橋について二つの記録を発見した。

    文化五年八月御達
  井芹川筋陣橋より下安國寺下迄、藤崎宮御祭禮之節迄、例年殺生禁断有之候處、此節別段放生被仰候付、神
  護寺舊記之通、右之場所以来御祭禮之節ニ不限、平日殺生禁断被仰付旨被仰出候
     但、井芹川井手筋は是迄之通ニて、本川筋迄本行之通被仰付候
  右之通可及達旨御用番被申聞候條、以下例文
        八月十八日                    御奉行中

井芹川の陣橋から安國寺に至る間を特に祓川と称した。藤崎宮祭礼に係る重要な川として規制がなされていた。

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  陣橋より牧崎村邊迄、道之左右櫻植込被仰付置候處、下賤無辨之者仕業ニも可有之哉、數本切損し候様子相見
  不具合之儀ニ候、依之在御家人并村方え見■被仰付候間、見當相達候得は屹ト被仰付筋も可有之候條、右躰之     (■は扌偏に乄 熊本独特の文字 ミカジメ)
   儀無之様家来々々えも精々被申付置候可及達旨候條、左様被相心得、以下例文
             (文政八年)四月四日              御奉行中 


牧崎村には加藤清正の菩提寺・発星山本妙寺がある。当時の熊本における最大の観光地であり、芝居小屋や市なども立ち多くに人が参拝に訪れた。
そんな道筋を桜並木にしようとしたが、何者かがこれを損じたというのである。いつの時代もこのような不届きものがいる。
本妙寺の参道はその後、淨池廟(清正墓所)から山門を結ぶラインを延長して、現在のように直線化された。
この桜並木がいつのころまであったのか、残しておいてもよかったと思うのだが。
地図を見ると二ノ丸御屋敷から真下に見える場所にあたる。さぞかし美しい景観であったろう事が伺える。 

コメント (2)
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