近来何人とも不相知存寄之條々書認、夜中落書又は門戸等ニ張付有之候ニ付、御法之通何も一同ニ致披見候處、
書面迄ニてハ不分明ケ條も有之、相尋度候へ共、姓名を匿し候書面故誰とも不相知残念候、御家中之面々存寄之
儀有之輩は、軽輩迚も於御家中は匿名之落書等ハ有間敷儀ニ付、若は陪臣其害書之手筋無之輩ニても可有之哉
依之此節申談、陪臣其外何人たり共存寄有之輩は、姓名を顕し書付差出候ハゝ及詮議、其程次第江戸へ言上志之
條々奉達尊聴ニも筈候條、家来/\ハ不及申、支配有之面々は其方ニも残さる様ニ被申聞、書付差出候ハゝ、少も
無憚取次可被差出候、以上
天明七 七月 (度支彙函 明和より天明迄法令條論 368)
これは天明七年の奉行所の達だと思われるが、是以前にも「落書」は大変たくさん見受けられる。その時代/\に於いて、このような達が発せられたものと思われるが、まだ見出していない。この時期は飢饉で庶民ならずともその生活は困窮を極めていたとされる。落書の類も多く見受けられたことであろう。
しかしながら、落書を見付けられて罪を得たという史料もまた見いだせないでいる。
かなり辛辣な上級幹部の批判めいたものがたくさん見受けられ、当時の状況を反映していることが伺われる。