暑いさなかの展覧会だがこれは出かけねばなるまい。帰りにあちこち尋ねようとルート設定を楽しんでいる。
治年公は若くして(29歳)で亡くなるのだが、三男二女を得られたがすべて側室の腹による。
度支彙函の「明和より天明迄法令條論」(藩法7・熊本藩)をみていたら、天明三年の項(354)に「若御前様八月六日御流産之段、八月廿五日御達」とあった。(p626)
若御前様と呼ばれるのは若殿の正夫人の事であるから、治年公夫人・埴姫であり、その埴姫が流産されたことを示している。
埴姫は宇土支藩藩主で名君として知られる興文公女である。三歳七ヶ月年上の姉様女房で、結婚は天明二年四月十一日である。わずか五年ほどの結婚生活であり、再び子をなすことはなかった。側室の男子も幼かったため、埴姫の実弟・宇土支藩藩主立禮を養嗣子とした(齊茲)。
わずか一行の記事を見付け出し、その事実を確認して思いを馳せると、埴姫の無念さがひしひしと胸に迫ってくる。