願い事はいろいろある身だが、我が塩断ちは只々自身の健康の為である。血圧計を購入してそろそろ11ヶ月に成るが、毎日血圧を測定して記録している。
併せて塩気を成るだけ取らないようにしようと決意して、これも実行している。生野菜をバリバリ食べているが、ドレッシング類はいっさい使わない。塩も醤油もノーサンキューで過ごしている。これが功を奏したのか、160近かった血圧がここ二か月ほど140代後半の数字まで下がってきた。
これに運動が伴えば140代前半も夢ではないのだが、なにしろ数年前転倒して痛めた左ひざが悲鳴を上げていて、今はそれどころではない。
慢性的に左手にあった痺れも最近では随分良くなってきた。酒断ちはしていないが、これも随分飲んでいない。甘辛両党の私は時折甘いものに手がのび、これをなんとか克服したいと思っているが、生来食い意地のきたないたちなのでこれはなかなか止まらない。
それでも最近は80歳はクリア出来るのではないかという自信が沸いてきている。あとはおまけである。
熊本県上益城郡甲佐町早川にある厳島神社の神主であった渡邊玄察という人は、「渡辺玄察物語」「拾集昔語」「拾集物語」「拾集記」「渡辺玄察日記」「早川(そうかわ)故事」等の多くの著作をのこしている。今回はその中から「拾集物語」を御紹介する。
拾集物語 (渡邊玄察日記) p523
一、自分事寛永九壬申年二月十一日に出生
一、十三より内の事は父親に相尋候而書記候其以後は
自分見聞之事色々書出候
一、寛永九壬(みずのえ)申年
此年玄察生字鍋坊丸と云 此年の六月加藤肥後
守忠廣様出羽之國へ御流罪に御逢被成候此年の六
月より十一月迄 天下様之御蔵納忠廣公被遊御配
流御上使内籐左馬守様稲葉丹後守様御奉行衆に
伊丹播磨守様秋本但馬守様御横目衆に秋山修理様石
川三右衛門様熊本御城番に石川主殿様石川惣十郎
様中川内膳様伊藤修理様八代御城番に秋月長門守
様島津右馬様稲葉民部少輔様木下右衛門佐様
此年の十一月細川越中守光利様御當國被遊御拜領
豊前之國より當御國へ被遊御入國候 此年より當所
下早川村御給知と成る御給人は中村左馬進殿田
邊平助殿井上孫兵衛殿清成作助殿山田次右衛門殿
一、同十みつのとのとりの年
此年より御仕置目出度御事多し 殿様被仰出候は
以後/\忝難有可奉存御事段段に可被 仰出との
御ふれ御座候
一、同十一きのえいぬの年
此年より當所中村左馬進殿御知行御百姓衆厳島宮
之御祭禮九月六日/\に毎年執行神楽も奏上いた
し候 此年之眞父渡邊孫兵衛吉政一力にて厳島宮
前廉之本殿修造
一、同十二きのとのいの年
此年より當所田邊半助殿御知行御百姓衆同宮之祭
禮執行いたしはじめ候山田殿清成殿井上殿御知行
御百姓中右同前
一、同十三ひのへねの年
此年大きゝん銀百目に米八斗大麦三石粟二石八斗
一、同十四ひのとのうしの年
此年より鍋坊丸六つになり候十一月十五日より手
習はじむる三日にはいろは筆立覺え候師匠は上豊内
村玄情と云仁 此年ほうそうはやるなべぼう丸も
此年疱瘡いたし候 此年の十一月より肥前國島原
に切支丹謀反を起す
一、同十五つちのへとらのとし
此年にかけて切支丹島原はらの城に令籠城合戦あ p513
り切支丹の大将は天草四郎と申候従天下様九國之
御大名御小名に被仰付原之城被遊御責三四月比御
落城にて大将之四郎は御當家 細川光利守様御家
侍陣佐左衛門殿うち候委細は御書島原記に書出候
通にて候別書に書記置候 此年之六月十六日に阿
蘇神主惟善公へ初而煎本二之丸へ大里儀太夫殿御
屋敷御座候砌彼御屋敷にて鍋坊丸御目見仕候御盃
頂戴上下一具被下龍■入之大墨拜領假名を仙十郎 ■(广に射)
と被仰付候此仙之字分ヶ有之候とて神主殿之御家
老坂梨彌五助父吉政へ此仙之字大形ならぬ由被咄
聞候
一、同十六つちのとのうの年
此年天下一同にうしことごとく死す
一、同十七かのへたつの年
此年さねもりといひならはし候むしでき候て田を
くひからす従、公義むしおひおどり被仰付御惣
庄屋村々手永ぎり/\にもあひ候て色々のしたく
にて道をそここゝおどりまはりたいこかぬをうち
ひやうしをそろへおどりありき申候見物事
一、同十八かのとのみの年
此年 越中守光利様被遊御逝去候 此年肥後守光
尚様御國如前々被遊御拜領候此年當所天満宮造修
一、同十九みつのへむまの年
此年ほうそうはやる當所中に四十余人の小兒共ほ
うそういたし候に其内廿人死す 此年春秋當所向
ひ川原之道をよな/\女の聲にて上り下りなきさ
けぶ然處に其秋より疱瘡はやりふゆにかけて右之
通に廿人死すけい事と後々さたいたし候 此年天
下一同に大きゝん銀百目に米八斗五升粟二石
一、同廿みづのとのひつじの年
此年田畑耕作よいやうにとて立願仕候へと従 公
義被 仰出思ひ/\に産神/\へ立願當所も踊狂
言致候何れの村々も神楽あやつり舞踊有之候此年
右之通故候か田畠能作なり
「おはす」殿に続いて丹後細川能番組解説から・・・・・
この能番組に荒木善兵衛が50番の能番組の中に21番の大鼓・1番の太鼓で名前が登場している。
荒木善兵衛
荒木村重の子。天正7年に摂津有岡城(伊丹城)が没落した際に荒木村重はその子善兵衛を明智光秀の陣所に連れて行き、光秀は細川忠興に依頼して善兵衛を丹後加佐郡河守(現大江町)の城に入れてもらった。慶長5年の田辺籠城には大手を守り、細川氏の豊前移封に従って門司城付となり、そこで病死した(閥閲・年譜)。但し「寛政譜」等の諸書は村重の子に新五郎村次と弥四郎村基の両人を挙げるのみ。光秀の女婿だった新五郎が善兵衛と同人か。
この解説で非常に興味深いのは善兵衛が光秀の女婿・荒木新五郎村次だとする処である。
この解説は法政大学名誉教授・表章氏をはじめとする錚々たる方たちの手によっている。その根拠を知りたいところだが、もしそうだとするといろいろ納得できるところではある。