津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■公式記録に見える忠利公殉死と阿部一族誅伐事件・年表

2014-07-25 10:37:17 | 先祖附


    寛永18年
1月23日、忠利、阿部弥一右衛門宅を訪問。(日帳)
3月10日、忠利最後の書状

                                              
                 

                                             右のてくひより
                                             手なへ申計ニて候
                                             シに可申様ニハ
                                             無之候可心安
                                                     候

                                             以上

3月14日、忠利危篤         寺本八左衛門、枕頭に殉死を願い出る。 -→家老衆留意
3月17日、藩主忠利公死去    太田小十郎正信(18)殉死
4月17日、内藤長十郎元續(17)殉死  
4月26日、光貞(光尚)名代、堀平左衛門帰国「今度御供を申出シ候衆」に追い腹禁止を申し渡す
        (御意に背くなら跡式断絶)  ここに大田、内藤の名前がある?
4月26日、原田十次郎直之・大塚喜兵衛尉種次・橋谷市蔵重次(31)・野田喜兵衛尉重綱(69)・本庄喜助重政・
       林與左衛門正定・宮永勝左衛門尉宗祐(35)・伊藤太左衛門尉方高 以上八名殉死

4月27日、右田因幡統安(64)殉死 
4月27日付、寺本八左衛門正式に願い書差出す
4月28日、忠利、春日寺(釉雲院)にて荼毘に付す寺本八左衛門(54)殉死
4月29日、忠利遺骨、泰勝寺に収む
5月 1日、明石の御鷹春日寺の井戸に飛び込む(5:2日帳)
5月 2日、宗像加兵衛尉景定・ 同 吉太夫景好 兄弟殉死
5月 5日、光貞遺領相続の命あり、翌日登城御礼
5月19日、光貞江戸発駕
6月14日、光貞帰国
6月16日以前、阿部弥一右衛門尉通信・津崎五助長泰・井原十三郎吉正・小林理右衛門尉行秀 
                                                    以上四名殉死
 

6月17・18日、田中意徳に対し殉死制止
6月19日、田中意徳殉死
6月20日、田中意徳を除く十八人に跡式言渡し
6月23日、田中意徳跡式言渡し
9月29日、光貞参勤の為発駕

   寛永19年  
4月    妙解院菩提寺(妙解寺)建立の為、家中以下に賦課あり(百石に三歩役、その他は一分半役)
6月12日、光貞(光尚)帰国 この秋、光尚と改名ス 

   寛永20年
2月 9日、大徳寺天祐和尚着(日帳)
2月13日、妙解院追福の為一寺建立、妙解寺と号す、17日まで取越法要行わる。この月遺骨を移す 
2月17日、阿部権兵衛、焼香の際元結いをはらい、目安を上げる 即刻逮捕の上、組頭・藪三左衛門に御預
2月20日、大徳寺天祐和尚帰京の為出発(日帳)
2月21日阿部一族誅伐 、権兵衛も井手口に於いて「縛首」処刑さる。
3月     林外記、高麗門外に250坪の別宅拝領         (慶安2年12月、佐藤伝三郎に殺される)
3月14日、阿部権兵衛召仕以下の者、豊前の者四人、国の者八人、計十三人のうち、豊前以来の三人誅伐、
        他は放免さる。

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■暇人の手なぐさみ (三)

2014-07-25 06:59:52 | 史料

 こちらは支藩・宇土細川家の略系図である。宗家10代の齊茲公は宇土支藩7代目の立禮公が養子として入られた。12代齊護公も宇土支藩の出であり宗家は濃い宇土細川家の血が流れている。又護貞様の令室・温子様は近衛文麿公の令嬢だが、文麿公夫人・千代子様は宇土細川家出身の毛利高範氏の御息女である。現在の両細川家は、忠興公が愛してやまなかった細川立孝公からの流れと言っても過言ではない。

                            http://www.shinshindoh.com/pdf/20140709-01.pdf

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