津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■私ただいま大根足

2014-07-21 18:51:24 | 徒然

 ちょうど一年前のブログ、わざわざメールが教えてくれる。なんともお粗末なもので「手足三ヶ所が同時に攣りましたけど・・・・」であった。
そうかそんなことがあったなーと考えていると、丸一年間病状が好転していないことが判る。
左手はしびれが少し残っているし、からす曲り(こむら返り)を時々やる。最近は足がむくんで、私ただいま大根足です・・・・・
左ひざの痛みで運動不足となっていて、これが諸悪の根源である。塩気断ちで血圧は随分下がったが、大根足になるとは思わなかった。
靴がはけず、もっぱら外出はスリッパ様の靴で出かけている。

今日熊本は「梅雨明け」して本格的夏となった。日中はとても出掛ける気にはならないが、早朝涼しいうちに30分散歩を再開しなければと悲壮な決意である。
齢を重ねるという事はこんなことかと、つくづく感じる今日この頃である。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■「近世畸人伝」から僧 南谷

2014-07-21 15:54:04 | 史料

                  現在細川家藩士・中瀬家の先祖附を読んでいる。その出自・旧姓松下氏は、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が最初に仕えた
                  松下嘉兵衛之綱である。
中瀬家の初代助九郎は母方の曾祖父が明智氏であり、幼子の頃は秀林院(ガラシャ夫人)の
                  許で養育されている。父松下源太左衛門忠綱は会津藩主・加藤成明の家老などをつとめたが致仕し、寛文九年江戸に
                  於いて不慮の害に逢い死去する。即・助九郎(豊長)と弟(僧・南谷)は苦労を重ね七年後無事に仇を打つことに成る。
                  その顛末が「近世畸人伝」に「僧南谷」として紹介されている。以下の如くである。 

 釈照什、字南谷、幻華と号す。俗姓佐々木にして松下を称す。為リ人ト温潤恭黙、しかも沈勇也。寛文三癸卯年石見国吉永ノ里に生る。穉名 勝之允といふ。纔に乳を離るより筆研を愛し、好みて字画をなすに頗ル奇趣有。父源太左衛門忠綱、会津侯に仕しが(前会津藩主加藤式部少輔成明朝臣)後致仕し京師に在。長男豊長が為に官途を求んとて、豊長はた従者を引つれ、江戸に行。いくほどなく赤坂田町の旅舎にして不測の害にあふ。是、寛文九己酉の 年三月廿一日の夜也。(事故は豊長が附録にしるす)時に師、年七歳。其後、豊長摂津ノ国芥川の駅にして復讐せし時は、師九歳也。豊長、京師を出る時、師もともに往んとこふこと頻也、しかども其幼をもて、豊長みそかに行く。報讎ののちに人もて其由を告るに、師聞て、此行にもれ、ともに天を戴ざるの仇をうたざることを深くうらみ、且かなしびていへらく、吾幼しといへども男児として士夫の道永く廃す。此うへは薙髪して釈門に入、父の冥福を祈らんの外なしとて、もとよりの因あれば、遍照心院、(此地もと経基王の殿舎によりて六宮、或は八条御所などといふ。今の御旅所といふも満仲の産屋の旧跡也。其後八条本覚禅尼・二位如実禅尼ともに、右大臣実朝公追福のため仏閣となし、木幡證人・真空律師を請じ給ふ。これによりて尼寺と俗称す。又安嘉門院・四条局・阿仏尼公の墳土もあり) 義洞長老にしたがひ、十一歳にして剃髪し、終に上足の弟子となる。多年思ひを精し心をひそめて、地蔵院覚雄一派の淵源を極めつくす。此間、詩章は熊谷直閑 に学び、はた智積院泊如僧正、又峨山月潭禅師等にもとひ、専風騒にふけられしに、義洞長老、其学ぶ所釈門の要にあらざるを呵し給ひしかば、是より詩騒を止 めて、永観堂快立和尚に従ひ楞厳の義疏をきく間、病にかゝれり。然ども猶つとめてやまず。諸経論を諸師にきくこと枚挙すべからず。年三十法華の義疏書写 の望を起し、山門の霊空律師について講録を需め、坂本の寓居にして全く書写す。通計八十巻也。時に山王の祭日にあひ遠近の人衢に堵をなす。しかれども師一 室を不出デ騰写泰然たり。其勉強精苦おもふべし。此年はじめて多聞院にて梵網経古蹟を講ぜられしより、諸書の講に及び聴衆百をもて算ふ。かくて源廟(経基王の廟なり) の興復をもて志とし給へども、故ありて院を辞し、山門の外
に一草庵を結び、幻華堂となづけ、堂ノ記及び退院の辧を著す。さて六年の後、元禄丙子のとし、満山の衆徒、師の宿志により、興復のため再任をこふこと頻なれば、又多聞院にうつり、惣代の任をもて江戸に往キ、時の権門松平美濃侯によりて廟の来由を記ル し、聞之ヲ。又明年丁丑九月、復古の宿志、古記等を写して呈するに、美濃侯曰、凡京師の寺政は京師にて達すべし、是恒例なりと。こゝにおいて頓に上洛し、 京兆尹松平紀伊侯に事状を達す。此時、自誓の文を源廟に捧ぐ。其終リ、若シ時運未熟セば自ラ受ケ病ヲ速没シ、再来して願心を遂んといふに至る。神感の故にや、明年己卯十月、有司来り、廟社より門廡に至るまで一般に結構す。此月五日の夜、夢中に涼ヲ洗フ一枕ノ夢。蹈地ヲ窺ヘバ半窻明カナ リ。といふ一聯句を得たり。自ラ趣味あることを覚ゆとなん。庚辰四月、六孫王に正一位権現の勅許有。関東よりも神宝数十品を奉納まします。十二月十二日、 新廟遷座の儀式に勅使あり。辛巳八月廿八日、大樹君、六孫王権現の五大字を御みづからの筆して賜ふ。また水戸黄門光国卿も手状を賜ふ。

六孫王御墳墓年久シク廃頽之処、今度新被ル加ヘ御修覆ヲ之由、珍重之事ニ存候。誠ニ源家ノ氏神、御孫々迄御繁栄ノ御事過グル之ニ御 事御座有間鋪与、皆人一同奉リ存ジ候事に候。唯今迄は、義家一人被致サ信仰候とて、無益之八幡を源家之衆用ヰ来リ候。多田ノ満仲者、源家と申斗に而、御正 統にても無キ之をさへ、多田院など御取立被レ成サ候。今度は各別之儀、如キ我等ノ愚老も、数十年ノ来積欝一時に伸ビ、披雲ヲ望天ヲ不堪雀躍、歓抃之至に 候。為テ今度御礼ト、満山代僧遍照心院内、多聞院南谷法印下向之処、兼々愚老此義致シ苦労ニ候段、御聞及候とて、早速足下迄御申聞候由、事多之処、思召出 過分に存候。終ニ不致サ書中ヲ候故、以テ謝状ヲ不申入レ候段、足下幾重にも宜御申聞可ク給ハル候。頓首 七月六日光国 法眼
立庵医伯 此後は親しく御面会も有けるが、直の御文書も大通寺にあり。

道体益御清勝ヤ否ヤ、馳ル遐想ヲノ而已。先比蒙リ御許借ヲ候文書、新写相済即本書返還、別而恭存候。且被レ仰聞エ候書容易ノ事、雖ドモ 然ト当分衆中書立候。出来次第従リ跡差遣可ク申ス候。尚期ス他日ヲ。恐々頓首。八月十五日 光国 遍照心院 豪慧和尚 猊座下 宝永丁亥四月六日

又命下り、稟米百石を賜ひ、祭祀の用となさしめ給ふ。又中古以来長老の職廃せしかば、古記を抄出し呈するに、戊子歳正月十三日蒙リ勅旨 ヲ、義周をもて其職に任ぜしめ拝ス竜顔ヲ。これ満山不易の眉目也。又東林院を再造し義洞の創地也)、山門の院秩をもます。かくて歳ふるまゝに、廟社やゝ頽廃に及ぶ故に、修繕の志を起し、又江戸におもむく。享保庚戌歳五月十九日、寺社司小出信濃侯より黄金 を賜ひ、且命すらく、此金二分とし、一分は今後修葺の料とし、一分は子母の嬴余をもて後々繕修の用に充べしと。於テ是ニ廟社全ク善美を尽せり。壬子とし、 又江戸にゆき、深恩を謝し、且新画(弟子照本所図なり) の神影を加納遠江侯に呈す。侯斎沐して掲壁上ニ拝スル之時、忽東隣に火起リて殆侯の第に及んとせしが、俄に西風吹て火を転じ、一点も触ることなかりしとか や。甲亥歳正月、太子降誕(桜町帝におはす) 博士御袍衣を納るの地を卜するに、此地、吉にあたれりとて、源廟の樹下に納奉る。是より長く勅願の基趾となり、五月十日、初て紫衣を賜ふ。師、後来不朽の 例たらんことを願れしが、歳を経て志願のごとくに成ぬ。凡生涯の奔馳、満山の為にして毫末も身の為にはからず。丁卯歳の春、又東都に趣キ謁見の時、奏者、 寺号をいはずして、たゞ南谷と称するほどの寵遇に至る。又寺官の第にして官紙を出し、大中字真草行、はた朗詠集などを書しめらる。其他、濡筆を需る人踵を つぐ。此歳の夏、職を辞し、次坐に托し、東林院にかくれ、たゞ終焉の計をなし、歓喜天の浴油供を修すること一七日、蓋シ従来の功業、此尊の加護によること をおもふと也。結願の日より病に罹、人に面接を辞す。たまたま法眼百々俊悦来て病をとふ。師いへらく、我病薬すべからず。然カも過訪を忝す。請フ診脉せら れよと。法眼即チ診して、吁命也。実に薬治のおよぶ所にあらずといへり。一日、夢中源廟に至るに、かねて聞し兜率宮の荘厳のごとく也。かつ神、夷々子と呼 給ふと見て醒ぬ。たゞちに筆をとりて、 陰来レバ則チ陰。晴来レバ則チ晴。君家帰去ラバ。天朗ニ月清シ。 (陰来レバ則チ陰。晴来レバ則チ晴。君家ニ帰去ラバ、天朗ニ月清シ。) 夷々子辞世、と記し終て弟子にいへらく、我今、筆をとるに扛杵のごとし。しかれどももし社事によりて大君われを召サば、元気忽チ復し、千里も遠とせずして ゆかん。吁時ナル哉。吾功も亦あたれりとて、是より言語を不交ヘ。源廟をはじめ、常に仰給ふ所の神社を拝し終り、端坐して寂す。春秋七十四。元文元丙辰歳 十月十三日午時也。師、生涯三帝の恩勅を蒙り、竜顔を拝すること数箇度、東都に行ことは前後三十九度、四大君の寵遇を忝し、加之、月卿雲客、又三家以下、 国主、諸侯、旗下の士の帰依挙ゲ記すべからず。然るに謹慎の甚しきは、京兆尹来過の時は、前日必告給ふにより、師丑ノ時より起て日課の事尹を勤、寅ノ刻に 至れば三衣を著て端坐す。毎時如ク此ノなれば、徒衆、なぞさはし給ふととふに、上ミを敬するはかくすべきことなり、と答られしとなん。晉ノの趙盾が所行に 淮ふべし。世に師の書名をしりて其功を審らにするもの尠ければ、彼等の記をもて要を採て録す。手沢の書、刻につくものは、楷書千字文五冊、克己銘一冊、八 景法帖一冊、大通寺開山宗師行業記一冊、幻華消息一冊(以上印行)、 又詩稿許多あれども其志を見るべきものを挙グ。 客中、早春ノ試毫 江城為リテ客ト始メテ逢フ春ニ。且ツ喜ブ聖朝ニ寓スルコトヲ此身ヲ。 山衲素ヨリ無シ衣錦ノ志。只期ス神運ノ与ニ年ト新ナランコトヲ。 (客中、早春ノ試毫 江城客ト為リテ始メテ春ニ逢フ、且ツ喜ブ聖朝ニ此身ヲ寓スルコトヲ。 山衲素ヨリ衣錦ノ志無シ。只期ス神運ノ年ト与ニ新ナランコトヲ。) 上堂日、寄ス二三子ニ 樗木従来不足ラ量ルニ。山僧何ノ幸ゾ主タル僧綱ニ。 大塊仮ス我ニ椽柱ノ力。他日儻堪ヘン為ルニ棟梁ト。 (上堂日、二三子ニ寄ス 樗木従来量ルニ足ラズ、山僧何ノ幸ゾ僧綱ニ主タル。 大塊我ニ仮ス椽柱ノ力、他日儻棟梁タルニ堪へン。)

(追記)

附、松下助三郎豊長(後故有て母家の姓を冒し中瀬助九郎といふ)は、南谷の兄也。父忠綱、江戸の寓居にして早川八之丞が毒手にあひし時、年十二歳也。其夜、八之丞手書を残し置り。其書にいはく、我は加藤式部少輔内、早川八之丞一敏といふものなり。先年、藪久太郎忰、八助儀に付、大崎長三郎と出合、白昼に討留、国を立退し所、親、早川四郎兵衛切 腹被レ仰付ケ、其節縁類ども、切腹被レ差延我々え御預可ク被下サ候はゞ、当人八之丞引返し可キ申ス由致シ訴訟候へども、松下源太左衛門出頭し、其上、右長三郎縁類たるを以て、内々讒言候に付、四郎兵衛切腹被レ仰付ケ、源太左衛門右讒者故、如キ是ノ次第なり。

其後、豊長京師にかへり、宮原伝蔵といふ人にしたがひ剣術を習ふに、此人もと親の怨家を討んとせし間、其怨家病死して本意を遂ざること をうらむ。さる故に吾身にくらべて此少年を憐み、日にをしへ夜につたへ、かつ同じ心に八之丞が行へを求るに、八之丞は今、薦僧となるよしを聞出し、伝蔵も 亦其党に入リ、うらなきさまに語らひぬ。一ル日浪華のかたに執行せばやと約し置、其夜、助三郎にかくとつぐ。時寛文辛亥歳九月六日夜也。豊長とみに両人の 従者、(坂根八左衛門・中田平次右衛門) をあともひ、夜ごめに大坂に行、官廳に達し、こゝにまち、かしこにもとめ、此日は大坂にとゞまり、明日通衢にかゝり尋ね、其夜は芥川の駅に宿す。翌九日、 旅店の蔀をあぐる比、こも僧二人通れり。則一人は八之丞、一人は伝蔵なり。伝蔵人々をみて目ぐはし過ぬ。さて三人とも追行に、伝蔵は岐路より右の方へ行、 八之丞は村衢にいる。やがて豊長其由をいひて切かゝれば、八之丞も懐剣をぬきながら、木綿畑の溝を飛越んとしてつまづきたふれぬるを討ぬ。時に豊長年十四歳也。此挙の後、諸侯よりつのり求め給ふこと多時也。しかれども豊長いふ、子として親の讐を復するは則其職也。今、是を口実として禄をうくるは恥べきの極メ也とて、一も不応ゼ。其後、細川肥後侯は母氏のちなみあればとて仕ふ。今に其子孫連綿たりとぞ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■「拾集物語」を読む (九)

2014-07-21 09:06:24 | 史料

                         一、同四きのへ辰の年
                           此年の三月太守様大津山にて鹿狩被仰付候 此年
                           の三月六日矢満下彦兵衛猪右衛門親子と立山之約
                           束證文取置候彼山は亡父御先代に彦兵衛内の山に
                           て候へ共たて候て見可申とて彦兵衛御山無之由申
                           候故たて被申候に大分の御山に仕立申候内にて御
                           當代にて當所へ安松茂右衛門と申御山奉行在宅之砌
                           大分之御塀柱被成御剪候て御為に成候由に候近年
                           迄ゆかみ椎之木多有之候を當所之人々薪に申請剪
                           候前々右之由緒候故右之通に拙者又々たて申候然
                           者當分はたて得不申あれ居候右之約束手形物入に
                           有之候 此年の四月大雨折々洪水 此年より切支
                           丹の影ふみはじまる郡奉行弓削太郎右衛門殿牧
                           八郎右衛門殿之御郡代之時浅井喜兵衛庭にてはじ
                           めてふむ 此年五月三日大雨大水 此年之秋山出
                           村大武大明神修建御惣庄屋豊内彌左衛門役職之時
                           此年田口天満宮今之宮地に遷宮 此年雨しげし
                           此年世上悪し 此年之九月よりほうきぼしいずる
                           ひかり西の方にさす後には又ひがしにさす 此年
                           本願寺より智運寺と申使者僧被為下候 此年六月當
                           所西福寺へも智運寺来寺 此年十一月七日より邊
                           田見村井手初而ほりはじむる 此年又豊後より切
                           支丹長崎へ通る 此年雲歩と申禪僧を豊後國當太
                           守様之御領内に被遣候正法邪法分明之為と世上に
                           令取沙汰御尤の御事と申候 此年より横田手永
                           改易にて木倉手永に當所もなる
                            

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする