7月5日に書いた樹下家の初代・寿齋の実弟が生源寺大炊之助である。
浅井本宗家 ・1
浅井直政------●
2 ∥
+---浅井亮政---久政---長政---万菊丸・・・・・・・→細川家家臣・浅井家
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+--------●
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樹下左近大夫---+--左近近元---作蔵
| 家督
+--左馬之助(寿斎)・・・・・・・→細川家家臣・樹下家
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+--生源寺大炊之介・・・・・・・→細川家家臣・生源寺家
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貮百石 生源寺 市
初代
一、先祖生源寺大炊之助と申者近江国坂本罷在
浅井備前守殿旗下居申候備前守殿落去
之節生源寺一族何も近江国坂本留り申候大炊之助
儀は内裏江罷在候処
幽齋様常々御懇ニ付青龍寺江被召寄
御合力米五拾石被為拝領御側被召置相勤申候
幽齋様丹後国被遊拝領大炊之助儀も御供
仕候然處田邊御籠城之刻
三齋様関ヶ原御陳所江被成御座候御留守故
御人数之儀御不足ニ付御増被遊度旨樹下左馬
生源寺大炊之助ニ被仰付候依之古口近江坂本ニ
申遣人数召寄候然處ニ関ヶ原御陳事済候付
人数は差返候右為御褒美
幽齋様ゟ三原之御腰物被為拝領候にて所持
仕候大炊之助法躰仕候刻
幽齋様齋之御字被為拝領甚齋と改候様ニと
被仰付候其節も御脇差被為拝領候を于て
所持仕候大炊之助果候迄御城内北之丸
御櫓被成御預被召置候
二代
一、高祖父生源寺市兵衛儀四歳■袴着仕候段
三齋様被聞召上御紋付御上下并裏付之
御上下被為拝領候を于今所持仕候右市兵衛
十八歳ニ而
三齋様江被成御附相勤申候元和元年大坂
御陳之節意之儀有之候為御褒美従
三齋様御知行百石之御朱印之御書出并
盛昌之御腰物於御陳所被為拝領候于今所持仕候
且又於豊前国御櫓ニ志水伯耆組之者取籠
居申候節右市兵衛被仰付召時討果申候其刻
左之肩疵を負申候其外度々仕者被仰付
相勤申候其時分段々御褒美御書被下置候
得共類火之刻焼失仕候由申傳候其後市兵衛
儀歩行之御小姓頭被仰付寛永九年當御国
御入国前五月五日御知行百石御加増被為拝領候
右市兵衛歩行之御小姓頭被仰付候砌市兵衛ニ含
意趣を申者有之由
三齋様被聞召上其節市兵衛ニ御附人被仰付候
御印有之御自筆之御書于今所持仕候其
以後市兵衛病気ニ罷成御役儀御断申上候処願之通被成
御免御番方ニ被召加其後病死仕候
(以下略)
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■生源寺大炊之助(入道甚斎)【青龍寺以来】【田辺城籠城】
嶺山城に居候か、直ニ田辺にきたり、籠城いたし候、追手右の持口嶺山衆各と
有内なるへし、もとハ江州坂本の者なり、浅井備前守旗下にて、信長にハ敵筋
に候得とも、藤孝君御年比(懇ろ)の者故、青龍寺に比召寄御合力、米五十石
ニ而御側ニ被召出、丹後へも被召連、今度御人数少く御座候間、旧郷に人数
可申遺由、樹下左馬助と両人に仰付られ、其段申遺、寿下入斎人数催罷越候
(中略)参着之節は関原落去之砌にて、直ニ人数ハ返し、御褒美として幽斎君
より三原の御腰物拝領、法躰仕候節、斎の字を被下、甚斎と改候様被仰付、其
節も御脇差拝領、果候迄御城内北の丸櫓御預被置候