三百石 樹下一平
一、先祖樹下左馬之助儀江州坂本ニ居住仕知行高
三万石程領地仕樹下と申在名を名乗候し而
浅井備前守殿旗下ニ而御座候處浅井家
没落以後は法躰仕寿齋と相改申候
幽齋様青龍寺江被成御座候節御出入仕丹後
田邊御籠城之砌御城江籠申候御人数不足仕候間
在所江可申遣旨ニ付坂本江居申候一族共江申遣
寿齋兄入齋と申者人数召連罷越候處
其中御陳も相済申候由御座候其後入齋
忰樹下作蔵儀被召出御知行三百石被為拝領
寿齋・入齋・作蔵三人共豊前国江御供仕罷越以上
初代
寿齋江は知行三百五拾石被為拝領御城内江
被召置御懇被召仕候作蔵儀病死仕跡式相續
被仰付儀承傳不申由御座候
二代目
高祖父樹下右衛門儀右寿齋嫡子ニ而御座候
三齋様御代於丹後国御児小姓被召出関ヶ原
御陳之節御供仕相勤申候於豊前国御知行
貮百石被為拝領候
妙解院様御當地江被遊御入国候砌
三齋様御供仕八代江罷越其後
妙解院様江被遊御譲候有馬御陳之節も御供
罷越御帰陳之上御褒美被為拝領御鉄炮被成
御預相勤正保二年十二月病死仕候
(以下略)
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尚、樹下左馬之助(入道寿斎)と後にご紹介する生源寺大炊之助(入道甚斎)は実の兄弟であり、共に浅井家に仕えていた。
綿考輯録は次のように紹介している。
■樹下左馬之助(入道寿斎)【青龍寺以来】【田辺城籠城衆】
此時迄ハ御合力にて被召置候ひしか、田辺の首尾よかりしとて、三百五十石
被下候、父は江州坂本山王の神主樹下左近太夫治元(領三万石浅井備前守
妹婿也)其嫡子左近元国病気によりて、法躰入斎と改、二男左馬之助之治親
の跡を継、天正元年浅井一族ほろひ、左馬助も所領改易せられ、坂本の在所
江引込、入道寿斎と改、父左近已来御入魂のゆえを以、青龍寺にても御懇、
丹後江御入国已後も朝夕参上、御碁の御相手なと仕、御伽相勤申候、御籠城
之節生源寺大炊(弟)と両人に被仰付、古郷江加勢の人数申遣候、豊前入国
之節、寿斎兄入斎、入斎子作蔵御供仕候、其後三人共に病死仕候
(綿考輯録)
三斎様御付中津ニ相詰候衆 三百五十石 (於豊前小倉御侍帳)
略系図
浅井本宗家 ・1
浅井直政------●
2 ∥
+---浅井亮政---久政---長政---万菊丸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川家家臣・浅井家
|
+--------●
∥
樹下左近大夫---+--左近近元---作蔵
| 家督
+--左馬之助(寿斎)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川家家臣・樹下家
|
+--生源寺大炊之介・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川家家臣・生源寺家