津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

先祖附 樹下(一平)家

2014-07-05 07:28:58 | 先祖附

                                                       三百石 樹下一平
                           一、先祖樹下左馬之助儀江州坂本ニ居住仕知行高
                             三万石程領地仕樹下と申在名を名乗候し而
                             浅井備前守殿旗下ニ而御座候處浅井家
                             没落以後は法躰仕寿齋と相改申候
                             幽齋様青龍寺江被成御座候節御出入仕丹後
                             田邊御籠城之砌御城江籠申候御人数不足仕候間
                             在所江可申遣旨ニ付坂本江居申候一族共江申遣

                             寿齋兄入齋と申者人数召連罷越候處
                             其中御陳も相済申候由御座候其後入齋
                             忰樹下作蔵儀被召出御知行三百石被為拝領
                             寿齋・入齋・作蔵三人共豊前国江御供仕罷越以上
                           初代
                             寿齋江は知行三百五拾石被為拝領御城内江
                             被召置御懇被召仕候作蔵儀病死仕跡式相續
                             被仰付儀承傳不申由御座候
                           二代目
                             高祖父樹下右衛門儀右寿齋嫡子ニ而御座候

                             三齋様御代於丹後国御児小姓被召出関ヶ原
                             御陳之節御供仕相勤申候於豊前国御知行
                             貮百石被為拝領候
                             妙解院様御當地江被遊御入国候砌
                             三齋様御供仕八代江罷越其後
                             妙解院様江被遊御譲候有馬御陳之節も御供
                             罷越御帰陳之上御褒美被為拝領御鉄炮被成
                             御預相勤正保二年十二月病死仕候

                                       (以下略) 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

尚、樹下左馬之助(入道寿斎)と後にご紹介する生源寺大炊之助(入道甚斎)は実の兄弟であり、共に浅井家に仕えていた。
綿考輯録は次のように紹介している。 

■樹下左馬之助(入道寿斎)【青龍寺以来】【田辺城籠城衆】  
     此時迄ハ御合力にて被召置候ひしか、田辺の首尾よかりしとて、三百五十石
     被下候、父は江州坂本山王の神主樹下左近太夫治元(領三万石浅井備前守
     妹婿也)其嫡子左近元国病気によりて、法躰入斎と改、二男左馬之助之治親
     の跡を継、天正元年浅井一族ほろひ、左馬助も所領改易せられ、坂本の在所
     江引込、入道寿斎と改、父左近已来御入魂のゆえを以、青龍寺にても御懇、
     丹後江御入国已後も朝夕参上、御碁の御相手なと仕、御伽相勤申候、御籠城
     之節生源寺大炊(弟)と両人に被仰付、古郷江加勢の人数申遣候、豊前入国
     之節、寿斎兄入斎、入斎子作蔵御供仕候、其後三人共に病死仕候
                        (綿考輯録)
     三斎様御付中津ニ相詰候衆 三百五十石 (於豊前小倉御侍帳)

略系図
  
浅井本宗家 ・1
 浅井直政------●
         2  ∥
    +---浅井亮政---久政---長政---万菊丸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川家家臣・浅井家
    |
    +--------●
            ∥
     樹下左近大夫---+--左近近元---作蔵
                | 家督
                +--左馬之助(寿斎)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川家家臣・樹下家  
                |
                +--生源寺大炊之介・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川家家臣・生源寺家

                              

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■先祖附 下津(縫殿)家

2014-07-05 07:16:40 | 先祖附

                                               千石 下津縫殿
                           一、先祖棒庵久我右大将通興子ニ而御座候
                             若年之時分は京都ニ罷在候処ニ加藤清正公江被
                             召寄牢人分ニ而御當地江罷下加藤忠広公御代迄
                             罷在寛永八年病死仕候棒庵儀は一代名字を
                             名乗不申候様ニ承傳申候ニ付名字を除申候嫡子
                           初代
                             下津将監儀
                             妙解院様御代御国江被召寄候様子は加藤
                             
                             忠広公江罷在候砌ゟ御目見仕御出入仕候其後
                             牢人ニ而江戸江罷越候而も節々御目見ニ罷出
                             申候處御国ニ而生立申儀ニ御座候而御国江罷下居
                             申候様ニと御懇之御意ニ而其刻稲葉能登守様
                             柳生但馬守様沢庵和當(ママ)御取持ニ而御座候付御国江
                             罷下居候處御知行無役ニ千石被為拝領候其後
                             為用水之薪山併田畑高八十三石余被為拝領
                             御書出頂戴仕候御国江引越申候以後は長岡佐渡

                             津川四郎右衛門取持申候将監儀有馬一揆之節御供ニ
                             罷越相勤申候
                             妙解院様御逝去以後将監儀京都江罷登
                             申度由御断申上候処
                             真源院様御意ニ而御家督之砌ニ而御客之御衆左馬も
                             多中ニ御座候間江戸江御供ニ罷越可申由御懇之
                             御意ニ而罷越申候其後は毎年御供ニ被召連候
                             内正保四年病気ニ罷成養生仕候得共聢無

                             御座候付慶安十一(二)年御知行差上申度段
                             奉願候處 御自筆之御書被為頂戴家督
                             無相違嫡子下津縫殿江被為拝領候将監儀隠居
                             被仰付五拾人扶持被為拝領剃髪仕名を有安と
                             改申候有安儀寛文七年病死仕候
                           二代
                           一、曾祖父下津縫殿儀相勤居申候処病気罷成候付
                             妙應院様御代延寶六年御知行差上申度候
                             奉願候処如願被仰付候
                           三代
                           一、祖父下津久馬儀同年十一月縫殿家督被為
                             拝領相勤居候処元禄八年十一月病死仕候
                           四代
                           一、父下津久馬儀同九年正月祖父跡目無相違
                             被為拝領座配先規之通被仰付候
                             妙解院様真源院様御代下津有安江被為
                             頂戴候御書出御書等下津縫殿火事ニ逢
                             申候刻焼失仕候薪山御書出御書之内焼残
                             候■■は取持仕候元文二年八月病死仕候

                                       (以下略) 

                              

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■先祖附 續(少介)家

2014-07-05 07:03:32 | 先祖附

       續安藝守------亀介---+---少助-----猪兵衛---+---十助 乱心知行差上
                      |               |
                      |                +---弾右衛門---治平・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ 少助家(1,800石)
                      |
                      +---次大夫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ 毎家(御中小姓)
                      |
                      +---庄右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ 才十郎家(200石)

 

                                       千八百石 續 少介
                          一、先祖續安藝守本名中村氏享禄元年
                            出生慶長十二年行年八十歳ニ而病死
                            光源院義輝公御時世之時京村雲と申所
                            謀反人有之籠城ス攻レトモ不落丹波國
                            野々村郡中村安藝守ニ可退治由被仰付■刻
                            上洛仕是を退治仕ル依テ是ニツゝク者是
                            ナシトテ續ノ名字を賜ル代々丹後國ニ居住仕

                                                  續川勝ヲ両大将ト定候由
                          一、右安藝守子續亀介指物金ノ栗半月
                            石田治部少輔ニ仕知行五百石賜之治部少輔
                            滅亡之後京都江罷立候処関ヶ原御陳之節
                            数度之働
                            三齋様 御覧被遊候由ニ而被為召御家
                            参上仕候處段々 御懇之御意ニ而慶長
                            五年於丹後國被 召出御知行千五百石被為

                            拝領御鉄炮三拾挺被成御頭其後五拾挺頭被
                            仰付候大坂御陳之節働仕候ニ付御帰陳之上
                            為御褒美御銀被為拝領候
                          一、右亀介嫡子續少助後ニ名を掃部と改申候
                            掃部儀私高祖父ニ而御座候
                            三齋様江被召出御知行三百石被為拝領候
                            大坂御陳之節被 召連於御陳所働仕候ニ付
                            御帰陳之上為御褒美御加増三百石被為

                            拝領其後貮百石御加増被下都合八百石ニ而
                            仰付候
                            三齋様被遊御隠居候節直ニ相勤居申候処
                            御機嫌を損御知行被召上候處
                            妙解院様御代ニ亀介は病死仕候掃部儀
                            三齋様江
                            妙解院様御詫言被仰上掃部儀被成
                            御赦免亡父亀介遺知之内八百石被為拝領

                            御小姓役ニ被仰付相勤居申候内於江戸病死仕候
                          一、亀介二男續次大夫儀於豊前國
                            三齋様御児小姓被召出御知行三百石被為拝領候
                            被遊 御隠居候以後
                            妙解院様江御奉公相勤居申候処亀介遺知
                            之内五百石被為拝領先知三百石ハ被召上候
                          一、續庄右衛門江亀介遺知之残貮百石被為拝領候
                          一、掃部嫡子續猪兵衛儀私曾祖父ニ而御座候

                            妙解院様御代御児小姓被 召出新知貮百五拾石
                            被為拝領御詰衆ニ被仰付候嶋原御陳之節御供
                            被 召連候二月廿七日落城之砌大手口石垣を
                            乗申候時分疵を蒙候ニ付引取可申旨切々
                            御使御座候ニ付而小造兵助と一所ニ引御本陳
                            参申候此節之書付等今以所持仕居申候
                            御帰陳之後御番方ニ被召加御奉公相勤居
                            申候内病死仕候

                          一、右猪兵衛ニ被下置候御知行嫡子續十助江被為
                            拝領御奉公相勤居申候内乱心仕右之御知行
                            被召上候
                          一、三齋様 妙解院様 真源院様
                            御三代様亀介掃部猪兵衛ニ被為頂戴置候
                            御書出私所持仕居申候
                          初代
                          一、祖父續弾右衛門儀ハ右猪兵衛二男ニ而御座候
                            明暦三年

                            妙解院様御児小姓被召出新知三百五拾石
                            被為拝領御奉公相勤申候処寛文九年十月
                            為御加増百五拾石被為拝領延宝弐年五百石
                            御加増同八年御番頭之上座ニ被仰付天和
                            三年四月於江戸御加増千石被為拝領元禄
                            二年八月御花畑御奉行所御用被仰付相勤
                            居申候内同五年十一月御城代被仰付候同十
                            二年江戸江被召連於彼御地相煩同年五月

                            御先江被指下候處病気差■同六月於
                            京都病死仕候
                          二代
                          一、父續治平儀元禄五年八月御次江相詰見習
                            可申旨柏原新左衛門を以被仰出同十一年三月迄
                            御在國之内相詰申候處翌十二年八月弾右衛門
                            跡目之御知行無相違被為拝領着座被仰付御奉公
                            相勤居申候處病気ニ罷成御奉公難相勤御断
                            申上享保四年六月如願隠居被仰付家督

                            無相違三代目續弾右衛門被為拝領御番頭之上座ニ被仰付
                            小笠原備前組ニ被召加候其後備前方御役替ニ付
                            朽木内匠組ニ成内匠病死跡沼田勘解由組ニ
                            居申候内同十九年正月佐敷御番代ニ仰付
                            翌二十年佐敷江引越申候
                          一、私儀十五歳ニ而父家督被為拝領前髪執
                            申候以後當前之御奉公相勤申候

                                    (以下略)

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