津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■儒学殺人事件 堀田正俊と徳川綱吉

2014-07-08 17:10:36 | 書籍・読書

 

儒学殺人事件 堀田正俊と徳川綱吉
クリエーター情報なし
講談社

 

 

内容紹介

徳川三百年にあって江戸城内での刃傷沙汰は7件起こっています。いちばん有名なのは、浅野内匠頭が吉良上野介を松の廊下で傷つけた事件ですが、そのほかにも6件あるわけです。最高位の大老が殺害された例もあります。
「大老暗殺」といえば幕末の井伊直弼のケースが思い浮かびますが、あれは桜田「門外」であって「殿中」ではないのでここではカウントされません。では江戸城という国家権力を象徴する場所で殺害事件は、いつ、なぜ起こったのか、殺された大老とは誰なのか……。
事件発生は貞享元年(1684)8月28日。殺された大老は堀田正俊(下総佐倉藩主)。下手人は、なんと若年寄の稲葉正休でした。
「発狂」「乱心」の結果とされたこの異様な事件は、さまざまな憶測を呼びました。たとえばその場で稲葉正休を討ち果たしてしまったことに対して、水戸光圀は「粗忽である」と難詰、生かしておいて原因を究明すべきだったと断じたと『徳川実紀』にあります(じつは、殺害後の正休は無抵抗であり確信犯的行動だったようです)。
そんなしだいで、当時から事件の背景には時の将軍綱吉の意向があるとの噂も絶えませんでした。たしかに正俊在世中の綱吉は比較的抑制した権力行使の態度がみられますが、世に言う元禄時代、綱吉のやりたい放題の政治(側用人政治)は正俊暗殺以後に始まるといえます。
さまざまな状況証拠から推して、大老暗殺の黒幕が将軍であったことはほぼ間違いありません。しかし、なぜ将軍は大老を消そうと考えるにまで至ったのか、双方はどこまで「政治、国家観」「統治者像」を同じうし、どこから超え難い溝が生ずるようになったのか……。本書は思想をめぐって発生した知られざる殿中暗殺事件を追うことで、近世日本における「期待される政治家像」の形成を論じます。異色の思想史ドラマとなるはずです。
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先祖附 長尾(権五郎)家

2014-07-08 08:17:35 | 先祖附

                                              四百五拾石 長尾権五郎
                                一、高祖父長尾安右衛門儀加藤主計頭殿江天正十七年
                                  芦北郡於佐敷新知四千六百石被為被抱候主計頭殿
                                  高麗陳之節段々働申候ニ付赤熊之棒之立物被下
                                  代々用来申候其節南無妙法蓮花経之昇
                                  六本被下候内二本ハ切■四本于今所持仕居申候
                                  高麗陳帰陳以後矢部庄愛等(藤)寺之城被預
                                  与力十三騎家来同前ニ被申付候慶長八年

                                  矢部庄之内ニ而千貮(百)拾貮石余加増被申付都合
                                  五千六百貮拾貮石余ニ罷成名を豊前と改申候
                                  尤愛等寺ニ而病死仕候本知并加増知折紙
                                  をも所持仕居申候處祖父安右衛門牢人之時分
                                  於長崎類焼之節焼失仕候段承傳申候右
                                  愛等寺ニ而之与力
                                                      与力頭
                                          五百石         土橋掃部
                                          三百五拾石      嶋沢市右衛門

                                          同            中小路三右衛門
                                          貮百五拾石      加賀山次郎作
                                          百五拾石       早水正左衛門
                                          同            原 源右衛門
                                          百貮拾石       岡 兵左衛門
                                          百五拾石       後藤三五兵衛
                                          百石          八木庄左衛門
                                          同            小野田久左衛門
 
                                          貮百五拾石      横田勘左衛門
                                          三百石  豊前従弟 長尾又吉郎
                                          三百五拾石      田邊又助
                                      以上壱十三人
                                初代
                                一、曾祖父長尾伊織儀加藤主計頭殿ニ罷在候
                                  加藤肥後守殿御改易ニ付浪人仕天草江罷越
                                  居申候處於江戸堀丹後守殿同式部少輔殿
                                  御肝煎を以寛永十年九月新知千五百石ニ而

                                  妙解院様江被 召出長岡右馬助組着座被仰付
                                  嶋原御陳之節御供仕罷越御帰陳以後御鉄炮
                                  三拾挺頭被仰付清田石見組ニ被召加長崎江
                                  かり屋ん船入津の節御人数被指越候時も石見
                                  組ニ而罷越候
                                  真源院様御代伊織江戸詰被仰付罷登
                                  申候節大坂ニ而相煩病死仕候
                                二代目
                                一、祖父安右衛門ニ新知千石被為拝領候処病気ニ付而
                                  御断申上御咹■下明暦二年十一月御國罷出長崎江
                                  罷越申寛文二年四月病死仕候
                                三代目
                                一、親安右衛門儀堀宗三老同飛騨守殿肝煎
                                  を以
                                  妙應院様御代延寶三年十一月於長崎五拾人
                                  扶持被為拝領長崎江被召置候同八年二月被
                                  召寄初而御目見被仰付天和二年引越之儀
                                  被仰出同十月御當地江引越し飽田郡久米村ニ

                                  屋敷被為拝領罷在候元禄三年七月廿九日
                                  於有吉四郎右衛門殿帰参之御家人ニ被仰付候段被
                                  仰渡同四年閏八月十五日於花畑大組付被
                                  仰付同七年二月十三日新知五百石被為拝領
                                  同九年御使者奉行被仰付豊前小倉筑後
                                  柳川江之御使者相勤申候寶永三年二月
                                  御鉄炮貮拾挺頭被仰付同五年御普請
                                  奉行被仰付正徳二年十月御鉄炮三拾挺頭被

                                  仰付同三年九月御鉄炮五拾挺頭被仰付相勤
                                  居候處同四年十一月病死仕候

                                         (以下略)      

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