津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■ガラシャ忌・余滴

2014-07-17 07:30:59 | 人物

 今日は秀林院様(ガラシャ夫人)が亡くなられてから満414年の御忌である。数日前から熊本出身の作家・小山寛二の「細川がらしゃ」(上・下)を読んでいるが、いわゆる大衆小説で真実味がなく途中でやめてしまった。三浦綾子氏の「細川ガラシャ夫人」や、生方たつえ氏の「細川ガラシャ」など、女性の目で見た作品や、キリスト教者の目でみた作品などガラシャ夫人を主人公にした作品は数多である。好ではないが司馬遼太郎の「胡桃に酒」などもある。

中には家村耕なる人の「明智の娘ガラシャ」成る作品があるが、これなどは噴飯ものの作品である。霜女覚書を引用しているが、これは「下書きは細川家がつくったもの」等とするとともに、霜女覚書の書き出し部分「石田治部少乱のとし・・・・」を引いて、「石田三成が西国大名を結集し家康と雌雄を決するため挑んだ関が原合戦を少乱とわざわざ言わせているが少乱である訳がない」と書いている。
著者家村氏は覚書を読まれた時、句読点の場所を間違えたわけだが、「治部、少乱の年」とはいくらなんでも読まないだろう。
永青文庫が所蔵する覚書の該当部分は「石田志ぶのせうらんのとし・・・」と書かれているが、護貞様の御著・魚雁集では読みやすいように「石田しふのせうらんのとし・・・」とされている。
作家が引用する史料をどう解釈しようと知ったことではないし、表現の自由は保障されているから、このように立派な体裁の本が出版されるのだろうが・・・・
ごもっともと思って読まれる方は居られないだろうと思うが、咄のネタとして読むのには良いかもしれない。

                                                  

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■「拾集物語」を読む (八)

2014-07-17 07:10:13 | 史料

                              一、寛文二みずのへ寅の年
                                 此年の二月一日當村御百姓庄左衛門と云者の丈た
                                 かの飼犬にあたり同村御百姓惣左衛門と云者熊本
                                 いぬうちの處へ役夫にてひいて参候をいぬうち慥
                                 に打ころし白犬にて候然處に右庄左衛門屋敷林之
                                 中にぬかぐらを作置候に其内に右之庄左衛門白犬
                                 來りて子をうみ候まぎれなき庄左衛門がかひ置候
                                 而御鷹の飼犬に出し候白犬にて候庄左衛門不思議
                                 に存ひいて参候惣左衛門に乍其上相尋候へば慥に
                                 無紛いぬうち方が打殺候而はらめる犬にて候と申
                                 候と申候然は彼犬の子はい毛色の子にて然々目も
                                 あかずぐず/\となき候尤母犬には庄左衛門言葉
                                 をかけ申候はおのれは御鷹の飼に遣候てすでにう
                                 ちころされ候が如何して來て子をもち候かと申候
                                 にげにとはしか/\うれしがり尾をふり候事なく
                                 候而母犬も子犬も一両日過候て行方しれず候渡邊
                                 又兵衛などもたしかに右之犬母子共に見申候自身
                                 物に似たる了簡にて候へ共存候は乍畜生此ぬかぐ
                                 らにて子をもち候はんと思ふて居るうちにころさ
                                 れ候へども右の念にて如此かと存候事共に候 此
                                 年金海山釈迦院熊本禅定寺之老隠周欣和尚観音入
                                 佛 此年春雨多し 此年あそのけふりはなはだし
                                  此年甲佐正宗寺にて熊本順正寺僧に覺山と云
                                 僧浄土三部経講談 此年豊後九ぢうだけにけむり
                                 いづる 此年の五月八日大雨洪水 此年五月三日
                                 より起請文を進奥田一残公はりの秘傳受く 此年之
                                 五月京大阪大地震京都二條之御城も奉損候などゝ
                                 風聞仕候 此年之五月中に有吉頼母殿京都にて御    本家六代英安
                                 死去 此年之夏大分切支丹豊後より長崎へ通る
                                 此年の八月十八日より同廿四日迄中程之大風夜    白南風(しろはえ)の事か・・・?
                                 ふく 此年之七月卅日之夜はた雲西より東の方に
                                 たつ 此年御船法光寺當分之堂建立大工は八代横
                                 山次左衛門 此年鯰村之明神當分之宮地へ遷宮
                                 此年之夏絹布の衣類御法度つよく少のきぬぎれに
                                 ても御惣庄屋村々廻り取集村々庄屋所へ被差置候
                                 寺社は別條無之醫師も寺社同前 此年有吉内膳殿    本家七代貞之 四代興道嫡男
                                 同氏頼母殿之跡御拝領御家老従太守様被仰付候
                                 此年之八月豊後之内よりさつま金山へ参候て罷在
                                 候切支丹取に當村御給主中村伊織殿御出 此年之
                                 九月自分弟孫四郎落髪 此年之九月七日より渡邊
                                 五郎社役 此年之九月十九日之夜大なへ 此年六
                                 七八九十十一月中方々大疫病流行 此年當南早川
                                 中に八十二人疫病人有内孫左衛門娘甘酒餅をくひ
                                 令食傷卒死其外八十一人自分薬治候にすきと令快
                                 気候此年之十月三日老母妙空死去 此年之十一月
                                 十三日之夜熊本古町火事堂順正寺失火 此年之同
                                 月十四日に同京町に少火事 此年之秋従公儀疫病
                                 御祈祷之御木札村々に被成御立候 此年當所いで
                                 四だうざきのいび石いびになる奉行山口傳右衛門
                                 牧與左衛門
                              一、同三みずのとの卯の年
                                 此年之正月四日之夜大雷 此年之二月坪井火事五
                                 百餘家焼る 此年之二月十九日に上野在々之内も
                                 ちばたと云所の者共飯田山に参候て歸りに野火に
                                 あひ四人死す 此の年太守様松平讃岐様之聟御に  綱利室は松平頼重養女・実は水戸中納言頼房息女・久(本源院)
                                 被遊御成候 此年釈迦院本道修建願主禪瑞彼禪瑞
                                 は奥州之僧にて候道者にて候 此年三月八日より
                                 同十日迄長崎火事二千九百一軒焼る三千餘人焼死
                                  此年三月廿日より四月廿六日迄大日照當所のぬ
                                 ま田ひはれめ一尺餘碧(緑)川三合ほどにひる苗悉く枯
                                 れ候 此年四月十一日より同廿一日迄 大猷院様
                                 御十三回廻之御法事妙解寺にて妙法經千部天臺宗之
                                 僧達御執行僧衆不足分は大慈寺之僧衆被遊御加候
                                 大慈寺は法室和尚住職之時にて候當所薬王寺住持
                                 休蔵司大慈寺之迚僧にて御候而御銀二枚御拝領
                                 此年疱瘡流行當村は去十月よりはほうそういたしは
                                 じめ候今正二月迄に仕廻候四十餘人相勤候兒之内
                                 三人死やすひ疱瘡にて候 此年之春より夏末迄大
                                 日照甲佐谷勿論方々雨乞踊有之候甲佐川常之流に
                                 くらぶれば二合餘と人々申候 此年切支丹數十人
                                 豊後より長崎へ通る 此年太守様之御前様御輿入
                                  此年の八月大雨 此年田畑不作七八十年に無之
                                 と老人共申候 此年五こく高直 此年太守様麻生
                                 原村下之河原に御河狩被成御座候 此年夏秋大疫
                                 病流行 此年岩下村にかゝる田の水せき所建立い
                                 で小河嶋の向ふにできる 此年雨乞立願成就之狂
                                 言踊村々に有之候 此年之十一月廿三日之夜寅卯
                                 の刻に高來温泉山動揺して翌朝煙見ゆる                嶋原普賢岳か 
                                  

                                 
                                  

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