或時立石権平所にそは切振舞に参候唯今片山多門屋敷にて候 舎人殿より手紙参候故直に参候へは口に御出松島三碩と御咄候所に参候へは此中度々咄申候へとも取合不申候 續彦太夫馬今日も見申候 最早こらへられぬ程に何卒肝煎呉候へと御申候 拙者申候はいかにも御望の様子心付申候へとも三碩心安存申上候如御存彦太夫儀心安く御座候へは申候はゝ進上可申候 併彦太夫は一類多き者にて其内にはしかと咄申さぬも多く御座候 此者共他人にても所望とは不申候 此方より進候様に沙汰可仕候 左候へは両人ともに迷惑仕候 是は御望叶可申事存寄申候 何と/\と御申候故に十左衛門殿は彦太夫とは私同前に御心安御座候と申候へは夫々とて碩/\と御申手紙調候故私は御暇申候と申候へは権平所さのみおそく有ましく候此返事聞候て参候へと御申候に付しはらく居申無程返事参御見せ被成候 此紙面に縁組馬の取持は拙者少わけ有て肝煎不申候へとも御紙面見申候へは何卒御手に入候様に可仕候間可御心安との御紙面にさつと濟んたとて事の外悦はれ参れ/\と其座を立申候 其後舎人殿より御紙面にて御花畑より直に追廻に御出被成候 彼馬今日事濟直に追廻に引寄見申候 拙者も直に追廻に参候へと被仰下候故参候處に辻御番所にて續團右衛門殿に御逢被成候 團右衛門殿御申候は是は傳右被召連何方へ御座候哉と被申候へは内々御咄申候彦太夫馬埒明追廻にて唯今見申候と御申候へはしからは私も見可申とて御同道の道にて傳右も見物かと團右殿被申候へは舎人殿いや傳右は此馬の本にて候と御申し候へは團右殿拙者へむき同名か馬をおれには取呉不被申御家老は格別かと笑ひ被申候 其後山名殿に参候へは此間は見へぬ無事か人に骨おらせ我身は面白く見物して出来た物と御申候ゆゑ此事存いや彦太夫馬の儀を事の外御望と御頼被成候故私も何共合點不参候ゆゑにけ言葉に御時分様と申候御自分様御取持にては彦太夫為に能御座候と存申候御免被下候へと申候へはいや舎人は其方事一位見あけ候とて譽候そと御申候 舎人殿前により馬數奇にて其時分迄は拙者も元服めされ候ても暫くは外様者には逢不申候 御意を御伺横井左平は鷹田中次太夫は弓此両人ならではひたしく御咄候外様者は無之候 御家中馬持被申候衆の内上下共に御出頭にて候へは此方よりも見せ度在る人多く御座候 其時分佐分利再兒は新四郎と申御入國の時分初て御家中子供致御目見候 其時迄はむかしの格式にて御醫者老父時分は知行被下ぬ御扶持切米取申候は一人も無御座候 物頭の格にて候 唯今も古き書付なと御奉行所に可有之候 就夫拙者も四男にて候へとも舎人殿尾藤勝助兄弟此迄も存命の助之丞近所にて續彦太夫仲光小内膳ケ様の衆と一同に八十二三人か御座候 舎人殿とは節々此咄いたし笑ひ申候 おれも傳右は御目見も一同御奉公に出候事も同年と節々御咄鹽山仁右衛門なと度々上下の咄大笑仕候 右之佐分利其時分能駒を持居被申候故舎人殿御聞及御所望にて候へ共断申見せ不被申候 就夫御馬役に頼乗込候者遠乗に参候とて舎人殿に見せ申候 中間に被聞候哉以の外佐分利腹立被頼候馬役不通に成被申候由承拙者扨々一國壹人の志と心に感申候 唯今迄心安語申候右之通にて舎人殿は若く外様の衆は其時分迄御仕合可有様無之候 然は皆々けいはくに唯今存候へは大小身共思案仕見せ可申事に候 再兒祖父佐分利作左衛門と申武功の儀は牧丞太夫覺書にも佐分利作左衛門咄と書置其外の武功咄申候 忠興公御代八百石にて御鐵炮三十豊前にて御預其子加左衛門は老父も心安覺申候 嶋原にて三十挺御預被成候 此加左衛門嶋原御陳にて何も働の様子書付右の通誓文にて偽無御座候と組頭に當日の下に自分の名御座候是は十左衛門殿御見せ被成候 御祖父長岡右馬介殿道白と申は十左衛門殿御祖父島原の時節御備頭田中又助差出御見せ被成候 此紙を見候へは唯今はおこり強く物書とも下書にもせぬとて御見せ候 見申候神以是は扨もそゝう成事しかも武道の御尋に定て此差出にも色々工夫にて能様に書たるも可有御座候 此紙のそゝう成を見候へは又助心の内感申候と申候へは御笑々御聞候てれき/\衆の働神以具に承候へ共各終に末々の侍の事は咄たる事可有之候 十左衛門殿御咄被成候歴々の名は不申候間御聞有間敷候 拙者は覺なから果候事終りを慎申聖賢の言十左衛門殿尤誰にも申なとも神以不被申候 尤も歴々にて候へは十左衛門殿御一類も御座 拙者は能御心安思召ケ様の者も御見せ候と唯今神以落涙仕候 尤聖賢ならねは御誤も拙者式も身に覺候へ共當時の何も存の通當世御家中上下共に一人の事に候へは少の誤はゆるし可申通事拙者へ咄被申候衆中の内にもそしりたるを覺申候 其身には武勇顕れ可申様なき時節に候へ其時の事にても中々まねもならぬ男の推参者と拙者別てに候へは能存今もおかしく一人笑ひ仕候 扨右の佐分利加左衛門にも差出調候様にと組頭より申來候 其時祖父作左衛門被申候は加左衛門何と可書と存候哉一番乗りか四郎か首取候は格別一揆と云ひ百姓共の事にそこにて爰にてと具に書はおかしく存候 唯何の働も無之とはかり調候て差上申せと申たる由此咄は神以拙者歩の御使番にて居申候 當年五十九年以前に被召出十年目に御駕奉行被仰付候田邊又右衛門は平助弟歩頭より御使番頭に成申候内に存付書付置候 如斯覺候事は」拙者も少自慢に存候 右佐分利作左衛門果候砌
忠利公へ遺物差上候 小脇差にて同名角入御兒姓の時分被致拝領候宇津と慥に咄被申候 在宅被致候刻拂被申候 後悔仕候と拙者に此脇差を吟味仕取返度と被申候 是にて佐分利事察申候 色々咄も承り候とも如斯調候にも段々別の事に移り埒明申間敷候 武功の咄とも多く聞たる故に再兒新四郎さかり諸人馬を見せたかり候に一國壹人と拙者存候 定て祖父の咄承傳夫を用たる事に候 孝行にも志をすくを第一に申候 馬の儀に付先頃幸右衛門殿へ進し候
信長記の内平手秀清か嫡子の馬信長公御所望の儀書置候處に終りの事は見へ不申候いか様信長公御心に叶たる様に被存候
此信長公時代別て合戦多見へ申候其時分の咄に牧丞太夫覺書に御座候へは佐分利此馬の咄も有りたると存調置候 信長公御
乳母人平手中務太輔秀清子三人あり嫡子五郎右衛門二男監物三男甚左衛門と申ける 五郎右衛門名馬を持たりけるを請はせ
玉ふ處に某は武勇を心懸候間御免候へとにくていに申上まいらせさりけり尾籠なりし事共なり
八十歳にて書
享保九甲辰十二月 堀内旦夕道勝重判
堀内傳右衛門殿
同 傳 次殿