齊護---+---慶前 23歳没
|
| 松平慶永(春嶽)
| ∥
+---勇
|
+---韶邦
| ∥
| 峯(一条左大臣忠香養女・実三条大納言實満女)
|
+---護久
| ∥----------------------------------護立------護貞------護煕-------護光
| 宏子(鍋島肥前守齊正・閑叟 女)
|
+---承昭
|
+---護美
|
| 上杉茂憲(米沢藩十四代藩主)
| ∥
+---喜久
細川家12代当主齊護の御子とその配偶者を記してみた。(夭折した子女は不含)
長女・勇姫は越前松平家の当主・松平春嶽夫人である。結婚早々に離婚話が持ち上がるなど、松平家・細川家共に大いに気をもんでいる。
平成十八年七月発行の「熊本史学 85・86合併号」の高橋みゆき氏の論考「近世大名の婚姻--熊本藩と福井藩の婚姻・勇姫の事例を中心に」に委しく述べられている。大変興味深く面白い。
14代当主となった韶邦夫人は一条左大臣忠香養女であり、姉が明治天皇の皇后(照憲皇太后)である。一条左大臣は公武合体派の公家として知られるが、韶邦もまた公武合体に尽力した。天皇・皇后が細川家を尋ねられている。
護久の正室・宏子は佐賀鍋嶋家の「蘭癖大名」「肥前の妖怪」などと呼ばれた鍋嶋閑叟女である。
細川家への輿入れに関しては紆余曲折があり、細川家をやきもきさせている。
幕末から明治維新にいたる激動の時代に、実家や婚家また兄弟の間でも微妙な関係が見え隠れしている。