津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■先祖附 牧(新五)家

2014-08-25 15:14:35 | 先祖附

                                       

  牧家・略系図 (作成・責 津々堂)

                                +--新五(病死)
          兼重       嫡男・興相      |   善太郎・四郎右衛門
 牧遠江守---尉大夫---+--新五・左馬之允---+--平左衛門------------→(新五家)
                |             |   虎蔵    
                |             +--藤左衛門------------→(藤衛家)
                | 二男      
                +--五助----------------------------------→(新二家)
                |
                | 三男(細川忠興軍功記編者)
                +--丞大夫---+--権内 (病にて知行差上げ)
                          |
                          +--五左衛門---+--丹右衛門---→(市右衛門家)
                                     |
                                     +--丞大夫-----→(丞大夫家)
              

 牧家は細川家根本家臣の一家であり、青龍寺以来の家格を持つ。
 【牧丞太夫(兼重)ハ青龍寺より御奉公仕候、代々細川の御家臣筋目を以被召出、既ニ一色御討果の時も石川山にて狼烟を揚し役人也、其後小笠原少左衛門所にて黒川大炊と喧嘩 (中略)秀吉公より喧嘩は両成敗と被仰出・・(中略)立退・・夫より浪人して小西攝津守に奉公・・其後岐阜中納言殿ニも少の間奉公・・「今年(天正十九年)牧丞太夫・同新五父子帰参仕、聚楽にて御目見被仰付候」】


                                                千石 牧 新五
                               一、先祖牧遠江守と申者摂津國嶋上郡
                                 上牧と申所之者ニ而御座候右遠江守嫡子
                                 初代
                                 牧尉大夫儀
                                 幽齋様御代青龍寺ニ而被召出
                                 三齋様御代迄御奉公相勤高麗御陳
                                 之節御供仕其後丹後ニ而病死仕候御知行
                                 貮百石被為拝領候由ニ御座候

                                 三齋様御代右尉大夫嫡子二代目左馬之允儀新五と
                                 申候節丹後ニ而被召出御知行五百石被為拝領
                                 御側御鉄炮拾五挺被成御預御側ニ被召仕候
                                 岐阜関ヶ原御陳之節御供岐阜於大手
                                 相働申候ニ付御陳場ニ而段々御懇之蒙
                                 御意中くり之御差物并仁王清徳之御腰物
                                 被為拝領仁王之御腰物今以所持仕居申候右
                                 中くり之差物は関ヶ原御帰陳以後又々
                                 
                                 三齋様御指物ニ被遊由ニ而被召上御差物ニ
                                 御用被遊候由ニ御座候右中くり以来左馬之允
                                 定紋ニ相用候様ニと
                                 三齋様 御意ニ而今以定紋ニ相用申候
                                 其已後
                                 怠(臺)徳院様御差物初之節右中くり之御
                                 差物
                                 公義江被差上候段承傳申候其後於豊前国

                                 段々結構成 御意ニ而御加増被為拝領
                                 都合六千石之 御書出今以所持仕居
                                 申候其節御備頭被仰付御側ニ相勤御内■
                                 御用等段々被仰付
                                 三齋様 妙解院様御自筆之御書
                                 今以所持仕居申候右御加増被下候節従
                                 三齋様右左馬之允新五と申候節御自筆之
                                 御書被成下御取立可申極候間鉄炮はなし

                                 十人程馬乗候者二三人程先召抱可申候其外
                                 役程之人は知行被下候上ニ而召抱可申由之
                                 御書今以所持仕居申候其上
                                 三齋様御名乗之 御字被為拝領興相
                                 申候右興之 御字御自筆ニ而被遊被為
                                 拝領今以所持仕候是又御役料之由ニて高貮千石
                                 被為拝領候旨御自筆之御書出是又所持仕
                                 居申候

                                 権現様伏見ニ被成御座候節石田治部少輔逆心ニ而
                                 焼打ニ仕由其節
                                 権現様江 三齋様ゟ御内意被仰上御屋敷
                                 おちくほニ而御要害悪敷被思召上候間今晩
                                 向嶋■又ハ京都二條御城江被遊御立退候様
                                 御内意被仰上其節御道筋別而無御心元
                                 被思召候間牧左馬之允ひそかに御供仕候様ニと被
                                 仰付御鉄炮三十挺召連伝賀越被遊候節御供

                                 仕候由御大切之御供故被仰付旨御座候右之通
                                 承傳申候
                                 三齋様 妙解院様御二代御奉公相勤
                                 豊前於小倉病死仕候
                                 妙解院様御代右左馬之允嫡子牧新五病死
                                 仕二男牧善太郎三男牧虎蔵儀若年之節
                                 豊前ニ而被召出三代目善太郎江御知行千石
                                 虎蔵江御知行三百石被為拝領候其以後

                                 善太郎儀名を四郎右衛門と相改  (以下略) 


                           

     中央にあるのが銀の半月(中くり)の差物、当初忠興所要の差物であったが牧丞大夫が拝領、その後忠興に召上られ後徳川秀忠の請いにより
     細川家から将軍家に献上され、秀忠の差物の一つとなった。 

                                  

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■「三上」当てはまらず

2014-08-25 10:11:21 | 徒然

 手がしびれたり、足がむくんだり、こむら返しをおこしたり、立ちくらみをしたり・・・・すべからく血圧のせいだろうと思って朝の散歩を始めて一月以上に成る。
当初は160位の数字が当たり前であったのが、最近は140代半ばまで落ちてきた。これはまさに散歩のおかげでこれで体重が落ちてくれると云う事はないのだが、こちらは効果がなかなか現れない。不思議なことに途中小雨に降られたことはあったが、本降りの雨の為に休んだことはない。
四方の景色や路傍の植物などに目をやりながら散歩を楽しんでいる。

熊本県立図書館が工事の為休館となり、欲しい資料が手に入らずブログに何を書こうかしらといろいろ考えるが、散歩の途中そればっかり考えていることも有る。欧陽脩の「帰田録」に「余、平生作る所の文章、多くは三上に在り。乃(すなは)馬上枕上ちんじゃう)厠上しじゃう)なり」という有名な言葉がある。
文章を考えるのに最も都合がよいのは、馬に乗っているとき、ベッドに入っているとき、トイレに入っているときで、これを「三上」と云うのだそうな。
現在では馬に乗ることは無いので、さしずめ電車やバスなどの交通機関に乗っているときであろうか。自分で車を運転しているときの考え事はあまりよろしくない。尾籠なことだが私はトイレはすこぶる早い。考え事などする暇もなくすぐ出てくる。やはり考え事はベッドの中と言う事に成る。

散歩を始めてから日数を重ねると少々疲労が重なり、昼間うつら/\したり、時にはベッドに寝転んで仮眠を取ったりすることが増えた。そして早寝癖がついてしまったのと同時に、ベッドに入っていろいろ考え事をしていても何ともまとまらないうちに寝込んでしまう有様である。
つまりは「三上」は私にとっては全く当てはまらず、まいにちPCを前にして悶々としている。 

 

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