津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■先祖附 木下(嘉納)家

2014-08-17 07:29:06 | 先祖附

 秀吉の正室・高台院(ねね)の実兄・杉原(木下)家定の三男・日出藩主木下右衛門太夫延俊の子・三郎左衛門を祖とする肥後木下家の先祖附である。
延俊は細川幽齋女・加賀を正室としており、木下家・細川家の交流は時代が下っても大変密なものがあった。
又この先祖附から肥後木下家は、嫡家・足守藩木下家や、日出の交代寄合・木下家(豊臣秀頼の子・国松ではないかとされる木下延由を祖とする)との養子縁組が行われて居ることが判明した。
いささか詳細に欠ける事が残念である。

 

                                           貮千七百石  木下嘉納
                               初代
                               一、先祖木下三郎左衛門隠居以後陰入と申候
                                 幼名孫一郎十三之年
                                 妙解院様 御参勤之節豊後深江ニ被
                                 遊御船繋候付父木下右衛門太夫御船中江
                                 御見舞ニ罷越候 陰入をも召連初而
                                 御目見仕候其節
                                 妙解院様右衛門太夫ニ被成 御意候は子共も

                                 多く有之候得は孫一郎儀は熊本江進上
                                 仕候様ニ如何共可被 仰付由達而被為
                                 仰聞陰入江も種々有難
                                 御意御座候其節御側ニ津川四郎右衛門罷在
                                 御挨拶申上候由其後右衛門太夫病中ニ御直ニ
                                 真源院様中川内膳正様 御両所様江
                                 公儀江跡目願之儀御頼申置果候付
                                 御両所様被遊 御取持同名伊賀守同縫殿助

                                 家督被 仰付候其刻後
                                 真源院様曽我又左衛門様并津川四郎右衛門を以
                                 縫殿助陰入両人江被 仰下候其陰入儀
                                 妙解院様御約束之首尾有之候間熊本江
                                 参上仕様ニと被
                                 仰下候付辱仕合奉存旨御請申上崎迄
                                 伺公仕候処其節大坂御町奉行曽我丹波守様
                                 より

                                 真源院様江被仰入候 其陰入儀内々能存知
                                 其上
                                 妙解院様御約束之訳をも御存知被成候 御隣国ニ
                                 兄弟も居申事ニ有之候間御老中様方江御伺之
                                 上ニ而御城下ニ被 召寄可然候 幸来春江戸江
                                 御参勤被成事候間於江戸御老中様方御窺
                                 可被成候条夫迄は崎江被 召置可然
                                 思召候由被仰遣候有之後ニ候条先其元江罷在

                                 候■様ニと態山本三左衛門を以崎迄被下
                                 御懇之趣申聞候付同所高田村ニ三ヶ年
                                 御留仕罷在候處江戸御伺之儀首尾能埒
                                 明申候間熊本江参上可仕旨被 仰下宮部
                                 久八を被下刻久八為案内彼地罷立申候
                                 道中為御賄旁歩之御小姓両人被差添候
                                 正徳元年九月御當地江着仕千葉城ニ被
                                 召置候 同二年八月御知行貮千石被為拝領候

                                 承應元年三月御番頭被 仰付候 延寶
                                 元年十二月御番頭被成 御免人持ニ被
                                 仰付候 其後天草詰江戸詰御使者等相勤
                                 申候 同四年正月御備頭被 仰付御加増
                                 千石被為拝領候 右御役儀十四年相勤元禄
                                 二年七月願之通隠居被 仰付候
                               二代
                               一、高祖父木下平馬江家督無相違被為
                                 拝領坂崎清左衛門組ニ被 召加候 平馬部屋住
                                 
                                 之節為見習御次江相詰可申旨被仰付
                                 数年相詰罷在候内熊本廻り其外水前寺
                                 又は御鷹野御供等相勤申候 右之内江戸
                                 御供被 仰付五百石之御擬作被為拝領御供仕
                                 罷越於江戸御供御使者御次詰等相勤申候
                                 家督被為拝領候已後三郎左衛門と改申候 延寶
                                 四年九月於阿蘇御祈祷之節
                                 御名代被 仰付相勤申候 同月年頭之

                                 御使者被 仰付同十一月此元被差立十二月
                                 江府江着仕歳暮年頭之御使者相勤
                                 翌二月罷下申候 同六年九月御備頭被
                                 仰付右御役十九年相勤正徳元年四月
                                 病死仕候
                               三代     實平山才蔵弟平山伊学
                               一、曾祖父木下伊学江跡目之御知行無相違
                                 被為拝領有吉清助組ニ被 召加候其已後
                                 三郎左衛門と名改申候
                                                                                    (以下略)

                               四代   木下縫殿助弟木下伊織三郎右衛門聟為養子     
                               一、祖父木下伊織 (以下略)
                                

随分以前細川藩士・平山家のことを もしかしたら で書いたが、足守藩木下家の分家筋の藤栄(内記)の子が才蔵で、肥後木下家三代目伊学がその才蔵の弟であることがこの先祖附で判明した。
平山家は細川家ではあまり遇されておらず知行高は百五十石であるが、幽齋女・加賀の血を引いている。初代が伊学の甥にあたる故を以て召出されたものと思われる。

四代目伊織は婿養子であるが、木下縫殿助の弟だとある。縫殿助とは交代寄合(5,000石)木下家初代の木下延由(延次)の事もさすが、ここでいう縫殿助は延由の曾孫・四代栄俊であり、伊織はその弟・俊允のことである。と表記してあるのはいかなる故を以てであろうか?

 


                                  

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