津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「北村甚太郎覚書」を読む--2

2014-09-01 16:43:32 | 史料

                   

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■源之進櫓の事

2014-09-01 14:27:37 | 熊本

 熊本城顕彰会誌「熊本城」最新号に、富田紘一先生の「熊本城見所案内・9」があるのだが、畏れ多いことに少子の事を御紹介いただいており面はゆい思いをしている。
2009-01-14に 熊本城・・源之進櫓 を書いたのだが、これをご覧いただいたのかもしれない。(汗・・大汗)

           

 

 

 

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■「北村甚太郎覚書」釈文--1

2014-09-01 08:04:41 | 史料

                                 北村甚太郎覚書
                                      丹後國田邊御籠城
                                                               ィ
                               一、慶長五年に奥州景勝謀叛の由 家康公被聞召既に御
                                                ィと志て
                                 出馬被成に付て御先陳 羽柴越中守忠興公御舎弟
                                                    ィ     ィ殿
                                 細川玄蕃頭 同長岡与十郎 息与一郎 何連も大軍を卒し

                                 七月初比関東へ御出陳被成候 然處石田治少輔三成謀叛

                                 を企て中国九州廻文し諸勢を催して 家康公為退治
                
                                 関東へ令発向の砌大坂より召置候 忠興公乃御内所を毛利
                                    方             ィ可申                       居
                                 輝元より人質に取へきよし志きりに申遣候得とも 被付置候
                                      ィ
                              ィ家老小笠原少斉 河喜多石見中々承引不仕御内所如何被思召
                                 ィけん
                                 候哉七月十七日御自害被成に付小笠原少斉 河喜多石見
                                                           ィ由  ル
                                 切腹仕御供申御屋敷に火をかけ相果申候 明累十八日飛脚
                                                ィ玄旨
                                 丹後國へ至來して 幽齋公へ具に申上る 追付石田治部少  

 

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