津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「北村甚太郎覚書」を読む--3

2014-09-02 10:28:47 | 史料

                

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■「北村甚太郎覚書」釈文--2

2014-09-02 10:06:40 | 史料

                                         
                                 輔一味之の者丹後国を責つぶし可申のよし其聞へ有之候

                                 尤 忠興公御出陳の跡乃儀に候へは別 幽齋玄旨公御下知
                                  ィ被遊
                                 を以国中の武具玉薬田邊の城へ取寄宮津の城くみのしろ

                                 峯山の城其外所々を悉く地焼して一国一城に被成則
                                                            ィ一戦可被遂旨被仰渡ニよつて
                                 幽齋玄旨公御居城田辺の城へ大軍を引請可取被遊一戦の旨
                                                                   
                                 依仰御籠城の御覚悟御書付を以銘々の受取口相定城
                                                               ィ候ニ付
                                 郭を堅メ申候 我等儀大手の矢倉を御預け被成私親石見弟

                                 勘三郎妻子以下譜代の者とも一人も不残召連皆と一所に

                                 相果申に相極籠城仕候 其時我等名を北村甚太郎と申候
                                                           ィ被成下候
                                 豊前へ罷越居候て中務殿より宮村出雲に被成て弟勘三郎
                                                                  ィ
                                 も北村勘兵衛と名を替給候 余人は親か城に参り候得とも
                                                            ィつる
                                 子を残しなと仕候故後々たゝり有之衆も候事

                               一、忠興公御留守故越中の人数わづか五十騎の内外なり寄手の
 

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