津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川家の一色氏誅伐と黒田家の宇都宮氏誅伐

2014-09-14 20:50:34 | 歴史

 大河ドラマはいよいよ秀吉の「九州征伐」へと場面が盛り上がってきた。今日は黒田氏の宇都宮氏誅伐であったが、見ていてどうも後味が良くない。
いわゆる騙し討ちである。宇都宮鎮房の死は天正16年のことだが、遡る天正10年には細川家が幽齋の娘婿・一色義有をやはり誅伐している。
細川フアンの私としては唯一面白くない一事である。黒田の方は秀吉の命令だとはいえ、この騙し討ちは細川の一色誅伐とよく似ている。
当然黒田は此の事を知っていただろうし、案外参考としたのかもしれない。そう思うとますます不愉快である。

因みに、忠興はその後大徳寺の僧となっていた一色義有の子を殺害している。亡霊に悩まされ小さな祠をたててこれを祀つた。現在熊本県立図書館の敷地(元・細川内善家下屋敷)のなかにこれはある。   細川内膳家と希首座の祠

一方黒田氏も同様で中津城、移封した後の福岡城内にも宇都宮親子を祀ったという。 

宇都宮頼房の子・朝房は肥後国植木に於いて黒田孝高の手の者に依り殺害された。
植木にほど近い玉東町の山手に宇都宮神社がある。ここに頼房と朝房が祀られている。

           http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/kumamoto/tamanagun_gyokutomachi/utsunomiya/utsunomiya.html 

肥後国一揆も平定され、九州の姿も様変わりしてゆく。細川家が黒田氏に替り豊前入りするまで僅か12年である。

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■「北村甚太郎覚書」釈文--9・10

2014-09-14 07:12:37 | 史料

                                

                              一、同廿五日敵東西より一度尓貝を吹立巳の刻尓搦手の
                                 口   カハ
                                町に外輪まて時の声を上ヶ大勢責来り申候城中より

                                侍三十人斗り罷出鉄炮打合防申候處尓 幽斎公より

                                為御使石寺甚助藤木伊右衛門被遣急起引候て城中銘々の                                                                                                                 狭間 
                                持口を能守り候へと被仰渡付て引取々候て矢倉さ満塀
                                                     を            を
                                裏なと相堅め居申候處尓敵大橋越わたり本町筋越

                                大勢時の声を上ヶ通り候て搦手の堀際まて小野木

                                縫殿介昇参る 然共其堀の橋兼て此方より引置申候付

                                敵勢堀際尓つかえ居申候處右塀の上尓大草矢倉

                                とて松山権兵衛預りの矢倉有之候 其時妙庵公より山林

                                勘右衛門をもって我等尓被仰付候ハ急ぎ大草櫓へ参り

                                権兵衛一所尓て鉄炮を打敵退ヶ候へと被仰下尓付則小林

                                勘右衛門同道いたし大草櫓へ参り下の堀際につかへ居申候


                                        
                                敵七八人打多をし申候尓付残る敵ともこらへかね皆々敗

                                軍仕候 右七八人の内一人ハ昇大将と見へ申候黒き甲黒皮

                                おとし尓鳥毛の棒を差物尓したる武者なり 残六人は

                                昇差と見へ候 其時権兵衛鉄炮尓て打倒申候ハ我等見

                                届申候 又我等鉄炮尓て打倒し申候ハ権兵衛見届申候 又
                                     未
                                其日の巳の刻尓大手へ敵大勢尓て責かけ申候 大手ハ殊尓

                                我等とも請取の口ゆへ急ぎ罷帰り荒木善兵衛丸山源十郎
                                               ィ此衆我等居申候
                                宮部市左衛門大塚源次右之衆居矢倉ならびなり各受取の

                                所々より鉄炮打申候 大手杉の馬場と申先の道城より二町

                                四五反斗有之其道へ小出大和山崎左馬昇参りて頻尓責時

                                をあけて責懸り申時先懸仕候武者昇差八九人打倒申候得は

                                跡勢志らミ道尓立留り溝尓かゞミ或ハ木の根尓取付かゞミ

                                又ハ其人の跡尓取付/\して暫く引兼て申ノ下刻まてかゞみ

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