津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■安巳橋突囲隊

2014-09-29 12:27:00 | 歴史

 先に「安巳橋周辺」で、西南戦争における官軍の「突囲隊」のことを書いた。ウィキペディアでその概要を引用すると以下の如くである。

 籠城が40日にもなり、糧食・弾薬が欠乏してきた鎮台は余力があるうちに征討軍との連絡を開こうとして、南方の川尻方面に出撃することにした。隊を奥保鞏少佐率いる突囲隊、小川大尉率いる侵襲隊、及び予備隊の3つに分け、4月8日に出撃した。侵襲隊が安巳橋を急襲し、戦っている間に突囲隊は前進し、水前寺・中牟田・健軍・隈庄を経て宇土の衝背軍と連絡した。一方、侵襲隊は薩軍の混乱に乗じて九品寺にある米720俵・小銃100挺などを奪って引き揚げた。

この後衝背軍が薩軍を追い立てながら北上して熊本城に入城する。田原坂方面の激戦でも薩軍の戦いは勝利には至らず、敗走することに成る。
「安巳橋突囲隊」の出撃が状況を好転させる結果を導いている。

児玉源太郎が後に語ったことをまとめたものが、「熊本篭城談」として残されている。
これによると、、午前四時城門を出た一隊は坪井広小路から手取水道町をへて安巳橋に至っている。
侵襲隊は斥候を出しているが薩軍に遭遇したものの、日の出前の暗闇であったため見破られずにすみ、立ち返って状況を報告、安巳橋を急襲して激戦となった。これが錦絵などに見られるものである。そんな中突囲隊は上流100mばかりの浅瀬を渡河して、一気に宇土を目指した。
上流の明午橋(明治五年建設)が近いのだが、薩軍の守りが厳重でもあったのか、安巳橋の方が水前寺にいたるのに都合がよかったのか・・・
いろいろ疑問が残る。 

どこの城門をでて坪井広小路に出たのか、まだ詳しい資料を見出していないが、これも疑問である。城下は焼き払われ大隊規模の人の動きはすぐさま察知される。
西大手門→棒安坂→小豆坂(KKRホテル裏)→内坪井→坪井広小路といったルートが頭に浮かんだのだが・・・・如何
御存知の方が居られればご教示いただきたい。(正直私は西南の役の事は良く判らない・・・・)

 

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■「北村甚太郎覚書」を読む--18

2014-09-29 11:16:52 | 先祖附
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■「北村甚太郎覚書」を読む--17

2014-09-29 11:14:39 | 史料
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