石見浜田藩では正保三年八月藩主古田重恒が、一族の老臣古田左京の子を重恒の養子に為さんとする企てを密告され、左京の一派をを誅するいわゆる「古田騒動」が起きている。
二年後重恒は死去するが継嗣がなく古田家は改易と成る。
父・重勝は伊勢松山藩主、利休七哲の茶人・古田重然(織部)の甥だともいわれるが定かではない。
古田織部の弟・正的が細川家の茶道古流の家元三家の一つ古田家の初代当主である。初代から七代までは萱野姓を名乗っているが、正的が萱野伝左衛門の姉聟であったことによる。
古田織部の弟であることを隠すためであったともいう。
「古田騒動」の余波は思いがけないことで肥後国にも及んでいる。古田一族・萱野正的の存在が知られていたからであろう。
上妻文庫の奉行所日帳・抜書に次のようにある。
正保三年八月十九日 (朱書頭注)古田兵部少輔重恒ノ老臣 重恒ノ奸臣ノ勧ニヨリテ左京以下ノ老臣ヲ註スル叓藩翰譜ニ見ユ
一、古田左京家来之者落ちり候て参事も可有之と被思
召候 江戸ニても有人之沙汰ニ左京家来之者落ちり候て
参候 尤肥後国へ可参と被申方も有之と 又其座ニ被居
候人被申候ハ肥後守(光尚)不断之仕置ニむさと不知者ハ国ニ置不申候
様ニ堅申付置候間とても加様之者も置申間敷と被申候由候
就夫爰元ニ居候一門之者ともニも(高見)權左衛門を以被仰渡候ハ
左様之者参候ハゝ即刻可申上候置候は親類共も迷惑可仕
候 其上 太守様も 公儀へきこえ御迷惑被成候事ニ候間定而
かくし候てハ置申間敷と被思召候 関所/\へもぎょうさんニ
無之候様ニ可申付候 不知者参候は即刻奉行所迄申
上候へと可申付置旨奉行 高見権右衛門