「日付が替るのは何時ですか」と問えば、小学生でも知っていることだが、日本の中世・近世に於いてはそうはいかなかった。
「お江戸日本橋七つ発ち・・・」という俗謡があるが、当時は七つ(午前四時)をもって日付が替ったとされる。七つ以前の出発は夜発ちという。
例えば赤穂浪士の吉良邸討入りについて、資料は14日と書いたり15日としたりして混乱している。
赤穂浪士を預かった三家の口上書によると討入りは14日であり、幕府に於いてもそのように扱っているらしい。
17人の浪士を預った細川家で、接待役を仰せつかった堀内傳右衛門の「御預人記録」によると、「元禄十五壬午年十二月十五日暁七時分、浅野内匠頭殿家来之浪人四十六人、吉良上野殿本所屋敷え押入、上野殿并出合候家来討果候・・・」とある。「暁七時分」は討入った時刻ではなく「討果候」時刻であろう。
つまり赤穂浪士は14日の深夜討入り、日付けがかわった15日未明上野介を討取ったという事になる。
随分古い書物だが応永21年(1414)の『暦林問答集』に、「丑を昨日の終となし、寅を今日の始となす」「丑寅の両時、昨と今の交り也」とある。
つまり「寅之刻=七つ=午前四時」に日付が替るのである。
傳右衛門がいう「暁」は日出前の仄暗い時刻をいうが、そんな時刻に日は新たに成っている。江戸っ子は皆起きだして、事を為した46人の浪士を喝采を以て見送ったのであろう。