上妻文庫にある奉行所日録の抜書には、宮本武蔵の俸禄に付いてまとめられている。
※1 寛永十七年八月十三日
一、宮本武蔵ニ七人扶持合力米拾八石遣候 寛永十七年八月
六日ゟ永相渡者也
寛永拾七年八月十二日 御印
奉行中
右御印佐渡守殿ゟ阿部主殿を以被仰請持せ被下候右之
御印を武蔵ニ見せ不申御扶持方御合力米ノ渡様
迄ヲ能合点仕やうに被仕候へと被仰出旨主殿殿所より
佐渡殿へ奉書を相添候と佐州ゟ被仰聞候也
この時期忠利は江戸に在る。武蔵は松井興長を頼って熊本に入るが、早々に江戸の忠利に伝えられたのであろう。
七人扶持とある所を見ると小姓や下働きなどが七人いたということか、八月六日に遡り扶持米を支給することを命じている。
十八石は切米ではなく合力米と書かれている所を見ると、即支給されたものか。※2において新たな指示が為されているから、それまでの間
これで過ごすようにと言う事であろう。「永相渡者也」とあるから、武蔵を永く客分として預ろうという忠利の思いが見える。
この奉書(右御印)は見せずに、「御扶持方御合力米ノ渡様迄ヲ能合点仕やうに」という言い回しが面白いが、この待遇で合点してもらうように
よく話しせよというのであろう。
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※2 一、宮本武蔵ニ米三百石遣候間佐渡さしづ次第ニ可相渡候
以上
寛永拾七年十二月五日 御印
奉行中
※1は緊急的な処遇を指示したものであったのだろう。約四か月後、無役の蔵米三百石を遣わすことを指示している。
つまりは家臣としての扱いではなく、あくまでも客分としての待遇である。四公六民として考えると、知行に直せば750石の高禄と等しい。
武蔵が黒田家家老・寺尾氏の養父であることを慮ってとする研究者の説が多い。
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※3 一、宮本武蔵ニ米三百石遣候間可相渡者也
寛永拾八年九月廿六日 御印
奉行中
※2と同様の指示であるが、このとしの三月十七日に忠利は死去しているから、この指示書は光尚によるものである。
光尚も忠利の意向を踏襲したことが判る。
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※4 宮本武蔵ニ米三百石遣候間可相渡者也
寛永拾九年十一月八日 御印
奉行中
宮本武蔵ニハ御米被遣候時御合力米と不申唯堪忍分之
御合力米として被遣候由可申渡旨奉七郎右衛門
※3と内容は変わらないが、追而書きがある。この文章によると三百石は合力米なのだが武蔵にはそうは申さず、「堪忍分」であると云って遣わせ
といっている。堪忍分とは次の様に定義されている。 http://kotobank.jp/word/%E5%A0%AA%E5%BF%8D%E5%88%86
合力米(ごうりょくまい)とは「施し与える」米であるから、より穏やかな「堪忍分」の表現をするようにとの気配りである。
細川藩に於いて合力米がどのような形で支給されたのか詳しい資料が見受けられないが、サイト「金春流肥後中村家」の中の「閑話休題・合力米の
ことなど」にみる資料は大変興味深い。
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奉書 高位者がその意思・命令などを特定者に伝える際に、家臣などの下位者に一度その内容を口頭などによって伝えて、下位者が自己の
名義でその旨を記した文書を作成して伝達の対象者である特定者に対して発給する形式を取ったもの。
蔵米(取) 藩庫に納められた米から、俸禄として現物支給された。
・擬作(あてがい) 知行取に準じるが地方を持たず蔵米から支給される。(公租の対象と成る)
・切米取 春・夏・秋三回に分けて支給
・扶持米取 一人扶持を米五合として毎月支給