従五位下にして讃岐十八万石を領し、後秀吉の勘気を蒙り切腹を仰せ付けられた尾藤左衛門尉一成の二男・尾藤金左衛門知則を家祖とする尾藤家をとりあげる。
三千石 尾藤閑吾
一、先祖小山公清は大職冠鎌足十一代之苗裔
武蔵守俵藤太秀郷玄孫ニ而御座候
一、尾藤尾張守知郷右公清嫡男ニ而御座候被住
尾張守尾張國居申候故始而尾藤改申候
秀郷六代之孫ニ而御座候ニ付知郷と申候由尾藤家
代々知字を通字ニ用申候
尾藤源内は右尾張守末孫ニ而尾張國江居
申候由江州坂本合戦森三左衛門殿手ニ加り元亀
元年九月十九日其子又八郎父子共一所討死
仕候又八郎江男子無之候依之私家嫡家ニ立申候
一、尾藤甚右衛門一成初名十二兵衛と申候右源内二男ニ而
御座候母は生駒玄求娘ニ而御座候右十二兵衛儀
豊臣秀吉公江仕甚右衛門と御名附被成候黄母衣衆
にて御座候由播州多可郡之内壱万千石餘之
地を給候 天正十三年八月廿八日之知行目録于今
持傳申候 左衛門尉ニ被成候由其後讃岐國■都合
十八万石之領地申傳候 武功之儀書記無御座候
数度之働は御座候由申傳候 天正年中様子御座候而
讃岐國被召上武具も被召上候 浪人之後天正
十八年八月十五日切腹被仰付候 旦那寺千壽院
下野國小山と申所ニ有之由御座候 家之紋単桔
梗幕之紋違斧ニ而御座候 右浪人之時妻子
京都江差越申候節家頼之中武功之侍林□□(半助カ)
附申候由■中自然事も■無■■可相心得旨申附
其節左衛門尉ゟ刀一腰黄金取出右半助と申候此刀ハ
左衛門尉讃岐拝領之為嘉儀蒲生飛騨守殿ゟ被遣候
飛騨守殿其節被申候は伊勢一国ニ換間敷刀ニ而候へ共
此節譲申候由津之一國と名付致所持候由ニ而御座候右半助は
讃岐ニ而貮千石知行仕候御家之林孫兵衛先祖ニ而
御座候故孫兵衛方江右一國と申刀今以所持可仕候右
刀本先祖刀ニ付先年私家ニ返可申と其節
孫兵衛隠居仕請入致挨拶候得共由緒有之林家
持傳候条此方江は申受間敷旨金左衛門(二代目)致
返答候此孫兵衛旧居之眼を以申入候趣御座候右甚左衛門
嫡子尾藤宗左衛門と申候寺沢兵庫頭殿江仕
申候初名宗次郎有馬御陳前於江戸果申候
初代
一、高祖父尾藤金左衛門知則初名正助と申候右甚左衛門
二男ニ而御座候母は森三左衛門殿家老細野主計
娘ニ而御座候金左衛門儀初福嶋左衛門大夫殿江致
勤仕候左衛門大夫殿小舅津田因幡殿娘を左衛門大夫殿
養女ニ被成筋左衛門江嫁娶之由惣躰懇意故諱
正則之則字給知則と申候知之字は右通字ニ而
御座候左衛門大夫殿御改易之後致浪人森美作殿江
致勤仕候森三左衛門殿手ニ而祖父源内討死仕候由
■を以之由御座候三左衛門殿は美作守殿御祖父
之由美作守殿御息右近大夫殿江附人ニ而罷有
申候由森之御家断絶之後浪人ニ而江戸江
罷有申候金森出雲守様御内縁有之御懇意
被成候津之御取持ニ而
妙解院様御代寛永十二年被召出御知行三千石
被為拝領御左之着座被仰付此節江戸ゟ御國江
引越申候刻嫡子尾藤甚之允(※)妻子共乗被
船父金左衛門妻子共乗申候船ニおくれ難風致
破損溺死仕候此節家ニ傳候系圖書出之類
海ニ沈申候ニ付先祖委敷儀傳不申候右
甚之允相果候儀
妙解院様達 尊聴父金左衛門江御吊之被成下
御書候于今所持仕候右甚之允存命仕候得は
外ニ五百石被為拝領御約束と申傳候右金左衛門
薩摩江御使者被差越候段申傳候御用筋
年号共相知不申候右金左衛門寛永十四年
有馬落城之節前年板倉内膳正様
石谷十蔵左馬有馬江御出陳之節小倉迄
御迎志水新之允共両人被差出候由申傳候右
金左衛門寛永十五年二月廿七日有馬御陳城乗
之時三ノ丸乗通二ノ丸土居ニ登申候節は家来
浅川喜平次柴田長右衛門福山太兵衛手を取
引上申程之難所之由本丸石垣之下ニ早ク着
石打甲ニ中リ申候得共とつはい甲を着用ニ付
石すへり疵付不申候故急ニ乗込申候刻
鑓手負其場討死仕石垣之下ニ落申候
同所右家来喜平次も乗申候石打甲ニ中り
破られ申候得共直ニ乗込候処是又鑓ニてつかれ
金左衛門側江落重り申候由喜平次其深手ニ而無
御座金左衛門手之牢人西野五左衛門と喜平次両人ニ而
金左衛門江取付引立申候得共金左衛門息は絶
申候旨其後外之侍共取付死骸をかき陳屋江
帰申候■中蓮池之上ニ而沢村宇右衛門江討死
之通右家来喜平次申達候馬場三郎左衛門様も
御一所ニ御座候由
妙解院様二ノ丸之御本陳江金左衛門死骸かゝせ
参上可仕旨被仰下右家来喜平次又寺垣
八兵衛金左衛門鑓持共三人ニ而抱参上仕候得は
妙解院様御目見江金左衛門死骸かき居へ
申候様被仰付討死之次第右喜平次江御直ニ被
聞召具ニ申上候由■被成御意候はよいそ
つれてゆけと被仰出退出仕候旨御座候右
金左衛門討死之儀必死之覚悟とそ相見申候
何方江遣候書状とハ分り不申宛所無之自筆
物于今残申候廿八日惣攻之前ニ調急拙者儀
長岡佐渡手に加り先手仕候手安乗取可
申候其身は■至と討死を■申候あとの事た(堂)
調申候處折節惣攻ニ罷成候故右之状模置
打立申候而急ニ三ノ丸江趣申候由一幅を二ツ宛
切割キ五幅ニ仕候折も不大吹貫之差物ニ黒塗
仕候大中くり之立物二尺五寸之陳刀大さしはの
鑓ニ而御座候于今持傳申候右之立物
妙解院様御目ニ附死後ニ御取寄被成御写成様
傳承申候其後御用ニ無之趣ニ而其節之立物は
家ニ請取置申候金左衛門出陳之刻人数二百人
其内馬乗六人浪人廿人之由申傳候家来
討死手負之者共家司■野角兵衛儀二ノ丸
本丸ニおゐて浅川喜平次は石手鑓疵を
蒙り申候馬乗之内山田清兵衛今一人討死仕候
若輩之小姓中間小者共も討死仕候者御座候
右之書出其砌長岡佐渡殿有吉頼母殿江
仕候私家之扣は先年焼失仕候委細相知不申候
右家来角兵衛儀御帰陳之上ニ而
妙解院様御座之間迄被召出御直ニ御褒美
之由長岡佐渡殿御取次ニ而御座候段加々山
御傍ニ罷在申候由津川四郎右衛門ゟ之褒美
状所持仕候
二代目
一、曾祖父尾藤長四郎知成儀寛永十五年金左衛門
討死仕候節九歳罷成十五歳ニ満不申候得共右之
様子を以家督無相違被為拝領御左之着座被
仰付候元他国者ニ而此方江親類無御座候故佐藤
安大夫落合勘兵衛を右金左衛門入魂ニ仕候趣被
聞召上長四郎幼少ニ付右両人諸事心を附候様
被仰付候由其後金左衛門ニ改申候
(以下略)
尾藤重吉---+--又八郎
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+--知宣------+--頼次 (室真田昌幸女・於菊)
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| | +---甚丞(※)
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| +--知則---+---知成・・・・・・・・・・→細川家家臣・尾藤閑吾家
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| +---●
| ∥・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→ 同上 尾藤九平家
| 知成
| 宇多頼忠
+--二郎三郎--+---頼重
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| 真田昌幸
| ∥------+--幸村
+----寒松院 |
| +--於菊
|
| 石田三成
| ∥
+----咬月院