津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「北村甚太郎覚書」を読む--13

2014-09-21 18:20:40 | 史料
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■二人は詩人・・・

2014-09-21 14:37:54 | 徒然

 

 俳優・火野正平の自転車の旅「日本縦断 こころ旅」の秋のシリーズが始まるのを前に、特別番組が放映された。
温泉や名所旧跡等をたずね、うまいものを食べて褒め合ってと云うような旅番組には食傷してしまうが、この番組は視聴者からの手紙でその人の思い出の地をたどろうというもので、作為がなく火野の言葉や行動が彼の人柄を伺わせて面白い。心豊かな噂の色男である。
今日は過去の放送のBest3も放映されたが、一位になったのが7月下旬ころに放映された映像である。
これはたまたま私も見ていて、えらく感動し不覚にも涙をボロボロ流してしまったものだった。 

                    

 北海道当麻町の「シャタキ山(射的山)」を訪ねる旅である。
 
 はつねちゃんは火野正平が道を尋ねたおばあちゃんの孫娘である。目的地に向かう火野のあとをはつねちゃんはおばあちゃんの車で追ってくる。
小高い丘にはつねちゃんと二人登る火野、頂上での会話の中ではつねちゃんが病気であることを知る。さりげない火野の思いやりの言葉が胸に迫る。
眼下の田んぼの稲が風に揺らいでいる。それを見たはつねちゃんの言葉に更に胸を打たれた。

「風が吹いているから田んぼがなんか動いている・・・・」
それに火野が応える。
「あれな、風の足跡っていうんだ」 風の足跡?」 「風が足跡つけて動いてるみたいだろ」 「うん」 「そういうふうに見えるだろ。なんとなく」 「うん、なんとなく」 

一人でTVを見ていたからいいようなものの、又涙々である。はつねちゃんの病気がどの様な物か放送の中にはなかったが、明るく元気で大きくなってほしい。

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■先祖附 高見(怘)家

2014-09-21 08:15:31 | 先祖附

     森鴎外の「阿部一族」にも登場する、阿部一族誅伐事件に於いて、裏門から突入したのが高見権右衛門率いる一手である。
 

                                                 五百石 高見 怘(マモル)
                              一、先祖和田但馬守儀丹波國氷上郡和田之城主
                                四万貮千石代々領之 其子和田兵衛尉も和田之
                                城主而居申候 丹波領主赤井悪右衛門籏下
                                天正七年信長公之依命明智日向守光秀
                                丹波江發向赤井と及合戦被討果候 其節
                                赤井籏下之者共分散仕候兵衛尉も退城
                                牢人仕候 右兵衛尉儀和田新九郎と改申候 羽柴

                                大和大納言秀長被召抱候 右新九郎舅播州
                                高野郡堅間之内荒田城守高見助之允と
                                申候 新九郎嫡子長左衛門次男半次三男庄五郎と
                                申候 半次儀は天正十八年之冬奥州合戦之節
                                討死仕候
                              初代
                              一、高祖父和田庄五郎儀文禄年中於丹後
                                三齋様御代被召出御知行貮百石被為拝領候
                                其後 休無様被成御附候 岐阜関ヶ原御陳

                                御供仕相應之御奉公相勤申候 其以後
                                休無様加賀被成御越候節御供仕候 高野山
                                御法躰被成候節越前中納言様江御領分而居
                                申候處中納言様就御逝去浪人仕居申候
                                慶長十六年帰参被仰付於豊前御知行五百石
                                被為拝領御番頭被仰付候 其砌高見権右衛門と改
                                申候 元和四年病死仕候 其節間七大夫迄
                                覚書指出候處

                                三齋様御自筆之御書入御朱印被為頂戴候
                              二代目
                              一、曾祖父高見権右衛門儀高祖父権右衛門果候節
                                九歳罷成申候 元和四年六月頃
                                三齋様御知行百石被為拝領候 御隠居被遊候以後
                                妙解院様御側被召仕寛永三年四月御加増
                                百石被為拝領御側御者頭被仰付候
                              一、同七年正月百五拾石御加増被為拝領候 同十一年
                                十二月百七拾壱石四斗御加増被為拝領候 同十四年

                                肥前嶋原一揆之刻
                                妙解院様御供仕心馳を茂仕候得共右御役儀
                                御指圖無之不届ニ被 思召上遠慮被仰付候
                                同二十年二月阿部権兵衛兄弟共御討果
                                被成候節被仰付相勤申候
                                真源院様御代同二十一年七月御加増三百石
                                被為拝領候
                                妙應院様御代御使番之觸使(頭)被仰付候 其後

                                御小姓頭被仰付候
                                妙解院様 真源院様御當代江戸定御供
                                仕候
                              一、妙應院様御代茂江戸御供度々相勤申候
                                其外御隣國之御使者等相勤申候 明暦二年
                                十月病死仕候
                              三代目
                              一、祖父高見権之助 (以下略)

 

  先に■阿部茶事談 余滴を書いた。ここで大きな間違いをしていた。(その分は-------で訂正をしているが・・)

引用した阿部茶事談には次の様に書かれている。
      松平下総守忠弘公の御前御藤様御出生の女中 後真如院と云 後權右衛門ニ被下置高見権之助其外出生・・・」
つまり松平忠弘公夫人藤姫(忠利公長女)の生母が、後に高見権右衛門に嫁ぎ三代目権之助その他を出生したという訳である。

細川家譜には藤姫の生母に付いては触れていないが、阿部茶事談の記述に依り「真如院」という女性であることが確認できた。
 

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