津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■史談会を前に・・・一つの論考を読む

2014-09-10 19:55:17 | 論考

 1998年「日本歴史」に「虚実はあざなえる縄--殉死者たちの墓碑から」という論考が発表された。著者のHPでも紹介されその存在はよく承知している。
著者は九州大学の比較社会文化研究院教授で日本中世史がご専門の服部英雄教授である。
内容についても何度か読み、今般「阿部茶事談」を史談会で取り上げるについて再度読み込もうと思い検索してみると、殉死者たちの墓碑から--虚実はあざなえる縄」と天地が逆さまにはなっているが、PDF化された文章が公開されていた。大変読みやすく有難いことではある。

山本博文氏の著作にもよく引用されている。阿部一族の事件を考える上では、欠かせない優れた論考である。

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■小陳兄弟

2014-09-10 13:41:53 | 歴史

 細川重賢公の側室に嘉門という人がある。御中小姓・小陳弥十郎の実妹である。小陳氏は元阿蘇家の家臣であったらしい。酒造業を営んでいたが、父弥吉の代に寸志1,000俵を上げて諸役人段となっている。そんな中嘉門は江戸藩邸に入り重賢の子二人の生母となった。

光尚の側室(綱利生母・清高院)実家の清水家は、召出され御家門同様の扱いを受け大身の身分になったのに対して、小陳家に対して重賢公はそのような特別扱いはまったくしていない。嘉門の娘は谷田部藩・細川家の七代藩主細川興徳室となった。男子・豪次は嫡兄・治年が病弱であったためその成長に期待が集まったがこれも三歳で夭折した。嘉門も25歳で亡くなっている。(詳細は蓑田勝彦氏の「細川重賢の側室・嘉門について」に詳しい。) 

その小陳弥十郎に二人の男子があり、それぞれが漢詩を残しているのを見つけた。
掲載されている「采芹集・第八軸」をみると11歳から17歳までの人の七言絶句が27編が載せられている。時習館あたりでの成果かもしれない。 

     小陳清(弥十郎忰・小陳故太郎 十五歳)
         ■送人還蘇山
              蘇山突兀接揺天 日照神社吐彩煙 仙鶴翩翩應有待 振衣好去白雲邊 

     小陳貞(弥十郎二男・小陳勝蔵 十一歳)
         ■已酉上日
              氤氳瑞氣入新年 一樹梅花彩筆前 泮水東風春色動 絃歌聲沸萬家天 

白文の解読はまったくできない私としては、只々驚くばかりである。

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■細川藩における殉死者

2014-09-10 07:01:43 | 歴史

 次回の史談会では「阿部茶事談をよむ」の最終回となる。
御承知のようにこの著をもとに森鴎外は「阿部一族」を上梓した。阿部茶事談にいささかのいい加減さがあったものが、そのまま鴎外の作品に反映された。
阿部弥一右衛門同様周囲から殉死を噂された加賀山權左衛門は、「陰口をたたかず直接申せ」と言い放ちこれを拒んだという。こういった話は鴎外の耳には達していなかったらしい。
史実に反することが多々あり、読者諸氏にはあくまでも小説である事をご理解いただきたい。 

この殉死や阿部一族の誅伐に係るいろいろな話を付足してお話しようと思っている。
      ・阿部家の家来の処分
      ・妙解寺における忠利廟前の十九士の墓碑の順序
      ・加賀山權左衛門ほか殉死の噂の人達
      ・寛文三年「武家諸法度」による殉死の禁止令        等などである。


ついでにと思い細川藩における殉死者を調べて見た。(ほかにもあるかも知れないが、手元の資料では以上である)


             慶長17年   松井康之          2人
             寛永18年   細川忠利         19人
             正保 2年   細川立孝          4人
               同      細川忠興          5人
               同      有吉英貴          2人
             正保 4年   細川光尚         11人
             慶安 3年   沢村大學          1人
             万治 3年   小笠原長光         1人
             寛文 元年   松井興長          9人
             寛文 2年   有吉英安          1人  

             寛文 3年   武家諸法度による「殉死の禁止令」が出る。 

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