津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■雅之進殿本家入り

2017-01-26 07:21:21 | 歴史

 熊本藩年表稿を眺めていたら、天保五年(1834)一月の項に「細川雅之進(藩主齊護宇土支藩当時の息)本家に入り長岡氏に改む」とあった。
この一文を詳しく追ってみると、なかなか深い事情が見て取れる。 

細川齊護は記されているように元々は宇土支藩の藩主であった。本家の先代・齊樹の病気が重篤になり養嗣子となった。
その経緯は何度も書いたので省略する。 齊護公御家督一件之事 (一) 齊護公御家督一件之事 (二)

齊護は宇土藩主時代の名乗りは立政である。実父・立之の死去に伴い八歳で宇土藩主となった。表記の雅之助の誕生は文化八年(1825)七月、齊護21歳の時である。そして翌九年(1826)22歳の時本家を相続することになる。宇土支藩は弟・之寿(のち行芬)が16歳で相続した。

雅之進は宇土支藩に残され立政の生母・栄昌院によって養育される。栄昌院は老中・土井大炊頭利厚の三女・福姫(富)だが、賢婦人としてその名を残している。雅之進の生母については「上村氏女・久」とされるが詳しい事は判らない。

齊護は文政十年に浅野安藝守齊賢女・益姫と結婚した。二人の間には三人の女子があるが、二人は夭折、末妹が松平春嶽に嫁いだ勇姫である。
栄昌院に育てられた雅之進が上記の天保五年本家に入ることになるのだが、正室に男子がなかった故であろうが、この時期雅之進は9歳である。
弘化二年(1845)細川能登守利用女茂(鳳䑓院)と結婚するも、嘉永元年(1848)四月十四日に死去した。23歳であった。
齊護の宇土藩主時代の子であるが、細川本家の嫡男として本家入りし、将来を託されたが無念の死である。後は弟慶順(韶邦)が藩主となる。 

 

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