徳川家康より丹後宰相(細川幽斎)へ今度上方…途中但馬一國…
(20,500円で落札、ちなみに私は応札して居りません。)
下にあるのが実物ですが、慶長五年(1600)八月十二日付ですから関ヶ原陳の一月ほど前の書状であり、丹後・丹波国を与えるとあります。
この書状を届けたのが金森法印と津田小平次ですが、小平次は細川家にとっては因縁深い人物です。この人は会津征伐・関ヶ原陳での働きにより、家康から「安国寺肩衝」を拝領しますが、後、細川忠興が妹(加賀)婿・木下右衛門太夫と謀ってこの茶入れを茶会の席で盗み取ったという話が残っています。
話は脚色されたものでしょうが、面白おかしく伝えられています。小平次は津田秀政のことです。
今度上方鉾楯
付而無ニ被迎合
候儀祝着存候然者
丹後之儀者不及申候
但馬一国無異議
進置候 尚金森法印
津田小平次可被申候間
不能具候 恐々謹言
八月十二日
家康(花押)
丹後宰相殿
忠興は豊前を拝領、この書状の事は反故にされた訳ですが、その要因は井伊直政にあるといわれています。
井伊直政が懇意であった小野木公郷の助命を家康に強く進言していたことが受け入れられなかったことによるとされています。
小野木公郷は幽齋公が籠城した田邊城を攻撃した総大将です。