「乳もち奉公」という言葉があるがWEBで検索しても何故か出てこない。商家言葉かもしれないが、「乳母」と同じと考えてよいのだろう。
乳の出の悪い生母に変わって乳を与え、養育をし、時によってはその家で大きな力を要するようにもなる。
細川家に於いてその最たる人物は忠興公の乳母(中村新助妻)であろう。幽齋の命により嫡男・与一郎(忠興)は、生後中村新助の妻御乳を差し上げたが、4歳の折には父幽齋が出陣の為、新助夫婦に預けられ洛中に隠れ住み育てられた。
これは単なる乳奉公ではなく、与一郎の生き死にを託されたという事でもあった。その任を果たして、後にこの人は細川家中では「大局」と称されている。
綿考輯録は次のように記す。
「藤孝公、義昭公御漂伯御供の折、町屋に隠れ忠興公御育永禄十一年御感賞、御乳を大局被仰付新助知行百五拾石、妻に百石被為拝領、二人共豊前病死」
又
「(坂根)長右衛門妻之母中村新助妻忠興君御誕生之節、乳を被召上候、其後大局ニ被仰付、御知行百石、長右衛門并同人妻にも御書其外拝領物等度々仰付、
御懇之ものなり」 (綿考輯録・巻五)
「(中村)新助妻熊千代君(忠興)をあつかり奉候時、娘三人有之候内、(中略)幼少之ごうと申を召連候、此娘後坂根長右衛門ニ嫁候」
(綿考輯録・巻九)
又1,500石取りのT成る人物が大局から借金、これを長年返さないため三齋に泣きついた際、三齋は
「女ふせいの物をかり候て、同シ家中ニ有なから高知行取者共成次第ニ申のへ候事ハ、事之外無理かと存候」と怒っている。
寛永八年九月、三齋から越中(忠利)宛ての書状には次のようにある。
「我々御ち大つほねむすめ一人小倉ニ居候 其ものニ大つほねはて候砌銀子少々残候を彼むすめニ遣置候處 其銀子ニて米をかい持申候を ■■■■
借度由申ニ付弐拾石分四わりニかし候シ 其借状ニとヽこほり候ハヽ公義御借米之切手わけニいたし可返翰(ママ)とかヽせ借状放置 其後度々申候へ
共一圓承引不申ニ付 野田小左衛門・豊岡甚丞を以■■へ届候へ共 一切無返弁 寛永三年春たて物ニて七石余やう/\済し 残ハ其まヽ在之而
寛永七年之暮迄ニ残米百六十八石餘在之由候 加様ののやう/\のたくはえをかり 高知行取身二て打なくり置候事不届と存候 我々はて候
跡ニハ中々返申間敷候左候へハ 余の不便さにて候間 當年皆済仕候様ニ被申付にくヽ候へハ 其方は不被存分ニて可被居候 我々より知行所へ
人を遣納とらせ可申候事」
寛永八年十二月廿九日の書状(943)には次のように有り、どうやら一件は落着したようだが三齋の特別な思いやりが見て取れる。
「大局むすめニ、T借米不残取立御やり候て請取給候、無残相済満足申候、彼女一世ノ身上すみ申候事」
付T借状返シ申候事
また大局の子孫についても三齋の配慮が伺える。
末娘「ごう」は坂根長右衛門室、その嫡男茂助が後中村家を家督する。「伝来仕候御書(綿考輯録・巻9)」には次のようにある。
其方儀、母依願小知遺之、已来ハ鑓を為持候身上申付候、我等家相続之程ハ、
其方家も為無断絶、鑓と共に一封を相添候、子孫ニ至迄有相違間敷之条如件
正月十五日 宗立(御青印)
中村茂助殿
この鑓については、「土肥翁話」に
須佐美素雄御中小姓頭を勤めし時、組の中村新助傳來の槍のさやより、三齋公御自筆の書出たり、子孫の有ん限は、二百石遣はすとの意なり、素雄
盡力すれども輙く行れず、因て自身に下置れしお知行の内より二百石を中村に御遣はし成れ度、御先祖様の御詞を虚にすることあるべからずと云、是
に於て遂に新に二百石を舊知として、中村に賜はられしとなん
上の話は須佐美素雄が御中小姓頭をしていた頃からすると、齊茲公の時代の事と思われる。以下の記録が符合する。
実は六代・傳五に「寛保三年乱心ニ而自害、其時妻懐妊ニ而居候か、男子致出生候ニ付御中小姓召出、八人扶持拝領」という事件があった。
七代・九七郎(新助)には「寛政六年(1794)四月:中村新助、御中小姓ニ而上益城沼山津手永古閑村之内江在宅之処、御知行二百石被返下御番方被仰付在宅願之事」という記事が残るが、まさしくこのことであろうと思われる。
青龍寺以来の細川家根本家臣の家柄の中村家である。