正保2年9月に御違例となった三齋は12月2日申ノ刻、於八代御城で逝去、83歳の大往生であった。
御辞世の句 万代を直きにすすめよ渡川 かへらぬ水のあはれ思はゝ
蓑田平七・久野与右衛門・小野伝兵衛・宝泉院勝延等が殉死した。
御火葬は八代の泰厳寺(当時の泰勝院・現八代市立第一中学校一帯)で執り行われ、正面に「三齋公御荼毘所」と刻された石塔が残された。
そして正保3年の今日1月11日、御遺骨に長岡河内景則、加来佐左衛門家次、山田三右衛門・佐方源右衛門秀信・吉田兼庵等がお供して八代を出発した。24日の夜京都に到着し、紫野大徳寺中高桐院に納められた。利休の遺物とされる笠が欠けた燈籠を以て墓石としている。
追腹の四人の遺骨も同時に運ばれて一つに埋めて石塔一基が建てられた。
三齋の死後細川立孝は三万石を給わって宇土藩を立藩、八代城には筆頭家老松井興長が入城し以後代々松井家の納める処となった。
有名な興津弥五右衛門の追腹は三齋の三回忌に当たって高桐院の近くの船岡山で行われた。