作成・津々堂
正月五日、ある方からお宅にある家系図をみてほしいというご連絡をいただいた。
数日後メールで膨大な写真が送られてきた。蒲生氏郷に関係する系図であり内容には驚くべきことが記されていた。
熊本では電話帳を見ると蒲生姓のお宅が五・六軒記載されており、以前から不思議に思っていた。
会津藩主蒲生忠郷(氏郷の孫・秀行の子)の子・公郷の直系のお宅であった。忠郷は26歳で亡くなり、継嗣がないため絶家したと巷間つたえられている。
実は公郷という子が在ったが妾腹の子であり、極めて幼少であったのだろう。
秀行の正室・振姫は徳川家康の娘である。長男が忠郷、二男が忠知であり、忠郷の死去後は出羽上山藩四万石の藩主であった忠知が家康の孫と云うこともあって、伊予松山藩24万石の藩主となった。
忠郷・忠知の妹は加藤清正の嫡子・忠廣に嫁いで熊本に入国している。
熊本市小澤町に西福寺というお寺があるが、このお寺を創建したのがこの人であるが、この系図やお寺に残る位牌には相高院とある。
加藤家では崇法院として伝えられている。驚くべきことは忠廣の子・正光に兄・忠郷の娘が嫁いでいるということであった。
また相高院はどうやら忠廣の配流先に同行していたらしく、忠廣が亡くなった翌年(承応三年)に死去していることが記されていた。
熊本時代の相高院は「横手の館」で生活をしていたようだが、甥である公郷も共に生活をしていたのではないかと思われる。
相高院の出羽行に公郷は同行しているようだが、後に蒲生一族の菩提を弔ってくれるようにとの相高院の願により熊本へ帰国している。
系図を拝見すると公郷の子・久千代(久三郎忠行)は仕官することもなく、その子孫も熊本の地で蒲生一族の菩提を弔いながら今日に至っている。
熊本市京町の往生院には相高院が建立したと思われる、母・正清院の供養塔がある。
熊本市横手町の安国寺は、明智光秀の子・凡舜によって創建されたが、寺堂は以前から存在して弘真寺と称していた。
蒲生秀行の戒名が弘真院であり奇妙な符合があり、また寺内には秀行の物だと伝えられるお墓が残る。(鎧を付けたまま埋葬されているというが?)
そしてその秀行は熊本で死去したという俗説があるが、この系図においてもその説にそって記載されている。
尚、秀行室・正清院(振姫)は、秀行の死後浅野長晟(和歌山藩主37万石)に再嫁、光晟を生んだ十数日後に亡くなっている。
一昨日、これらの事を発表すべく蒲生様にお願いしたところ、快くご承諾いただいた。
蒲生家の男子は非常に短命である。秀行30歳・忠郷26歳・忠知30歳、徳川家康の外孫である華々しい家系もこればかりは如何ともし難いことであった。
熊本の西福寺の檀家総代を勤められるK氏は、わが史談会の会員でもあるが、提供いただいた資料によると、葵の御紋が描かれた「相高院殿法譽良感大禅定尼」の立派な御位牌が祀られているという。