こちらもヤフオクに出品されている品、細川光利(光尚)公の書状である。
光尚が光利を名乗ったのは、寛永12年である。従四位下侍従に任官し肥後守となった。
寛永15年天草嶋旗の乱に出陣して活躍した。18年春には光貞と改名している。
この書状はその間約六年の間に書かれた書状である。宛名の人物がよくわからず書状の内容も特定しがたい。
これもちょっと気になる品である。
ヤフオクの品物の解説を時折勝手にやっているが、この書状には少々興味がある。
真筆かどうかは判りかねるが、細川齊茲が娘・一条関白忠良簾中邰姫に宛てたものであろう。齊茲公は姫の幼名の「峯」と宛名書きして親しみを込めている。
峯(邰)姫は一度離婚を経験し、文化二年(1805)十一月一条関白忠良の許に嫁いだ。文政七年(1824)三十三歳で死去している。
峯姫は寛政五年の生まれ、齊茲34歳の時の子である。年頭に当たっての挨拶状である。
参勤交代の行列は一日十里(約40キロ)ほどを進む。途中鶴崎から大坂までは瀬戸内の船旅だが、約30日程毎日歩くことになる。
健康でなければとても宮仕えは出来ない。
本能寺の変の悲報が秀吉の元へ伝えられてから、いわゆる秀吉の中国の大返しに光秀はびっくりし敗北することになる。
これとて200キロを10日懸かっている。(ウイキペディア・中国大返し)
天草島原の乱に於いては一月元旦に攻撃がかけられ総大将の板倉内膳が戦死し、その報は江戸の家光の許に届けられ家光は激怒したとされる。
十二日細川忠利は登城して出陣の命が下されたが、肥後~江戸を早飛脚は10日ほどで駆け抜けたことになる。
忠利は日を改めることなく、その日の申刻(午後四時)には28名の家臣を残して江戸を出立、二十六日昼前熊本城に入ることなく直接川尻に到着している。
都合14日で陸海約1200キロを馳せ抜けた。驚くべき速さである。そしてすぐさま渡海して午後一時には軍議に参加するという素早さである。
秀吉の大返しのような大軍ではなかったとしても、少々驚かされる。二月廿七日の総攻撃まで敵味方十数万人がしのぎを削ることになる。