先に忠利が城内から花畑邸に引っ越すについて、前日米田監物が掃除を指示した書状を手に入れた。
■江戸初期 『 熊本藩家老 長岡監物 書状(御花畑掃除) 』 米田是季 古文書でも書いた通り、小田原城が地震で崩壊したことをうけての事である。
加藤家没落後、熊本城の受け取りに活躍した春日局の子息の稲葉正勝が城主となって 50日後の事であったとされる。
寛永十年一月十一日の事だから、忠利が熊本に入国(寛永九年十二月九日)してから一月ほどしか経過していない。この報はただちに伝えられたであろう。
忠利が花畑邸に移るのは二月十九日、城内の荒れようは凄かったようだからその修復のためもあろうが、地震の怖さを実感しての事だろう。修復後、城内に戻っているが、なにかと不便だとして又花畑邸にうつり、その後国許の居館となった。
あちこちで「地震屋」という建物が見られるようになるが、忠利は小倉城内でも地震屋を立てている。
花畑邸にも「地震屋」が建築されており、花畑邸絵図でも確認される。
城内において忠利はどこに住まいしたのであろうか。確かな史料にお目にかかっていない。(私が知らぬばかりかもしれないが・・)
熊本城の古絵図を見ると、本丸御殿の北のはずれに「御居間」と書き込みがある。北と南に入側がある10帖ほどの部屋である。
東側の廊下を挟んで便所や風呂場がある。
東側廊下は本丸御殿の中央部分(復元された建物)に廊下でつながりている。
きらびやかな「昭君の間」やつづきの「若松の間」を見物した人が、こんなところで寝ていたのかといった人がいたが、これは的外れな咄だろう。
この「御居間」が忠利の日常の生活空間だと考えるのが妥当だろうと思っている。
地下通路の「闇り廊下」を通っての生活や政務は確かに不便であったろう事は、この絵図をながめると良く理解できる。
北側は大きく開けた広場がある。東南方向(表鬼門)には細川家の墓所・泰勝寺が位置する。(この時期は存在しないが・・・)
そして東南東の方向に阿蘇の峰々が遠望できる、まさに肥後國領主の住まいには最高の場所であることが判る。
地震後の城内に入れないのが痛恨事である。見学通路が出来るのを心待ちしたい。そしてここから遠望できる阿蘇の山々をもう一度眺めてみたいと思っている。
方角:真上が北