津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「市井雑式草書附録」(6)

2019-02-19 17:59:07 | 史料

        六

 四一 文化十一年
一近御郡之儀、買集置候俵物類、其所々方角村々之作馬を
 以付越、熊本町牽通向々迄付越候付、熊本町馬士共及迷
 惑候由相達候、右は継所/\ニては継替可申筈ニ付、以
 來津端其外所々え付越候商賣荷物は、熊本町ニて夫々継
 替候様、若又無據譯有之候ハヽ、其段人馬會所え相答上
 荷錢差出、人馬會所え印鑑を以牽通候様
一旅人猥ニ在中え入込、俵物等直賣いたし候儀は難成儀候
 間、彌以旅人え直賣不致様
 右之通諸御郡え御達に相成候段、継馬受取別當え及達候
 事

 四二 文政元年五月
一在中不作等ニて民喰難取續見込二付、御代之内を以
 穀類會所え買入二成、在馬二て付取候分、此節御僉議之
 趣有之、上荷錢出方なしニ、熊本驛所付通候儀被差免候、
 尤、御圍籾之儀は公義御備分は諸國一統非常急飢之御備
 として、別段ニ被圍置、御自分方分迚も同様之御主趣を
 以、年々御年貢米之内より籾ニて被引除置、急飢拝領拝
 借等取計ニ相成來候、右之通各別之御備之事ニ付、御圍
 籾代より御出方ニ成候分ニ限、上荷錢出方無之様被仰付
 置候事ニ付、おろしや御手當米或は會所御用錢を以貨殖
 筋ニ買入候分は勿論、悉ク上荷錢出方いたし候筈之段、
 驛馬受込別當え及達候事

 四三 文政元年六月
一御國町在之者共、堂上方之人馬帳等を願受、驛人馬受取
 候儀は難相成候處、相撲取共之内ニは心得違いたし居候
 者も有之様子相聞、不都合ニ付、以來右躰帳面等を以、
 人馬受取候儀は難叶段、町中え及達候事

 四四 文政元年八月 寶暦四年八月、寛政四年七月達
一馬士共一人ニて馬貮疋牽不申様ニとの儀は、兼て及御達
 置候通候處、高橋通之熊本馬士共之内、間ニ貮疋牽越候
 様子ニ付、示置候様馬差え及達候事

 四五 同二年六月
高橋町より石塘磧所上ニ平田船を登せ致積荷候儀ハ難叶      高橋町→五ヶ町の一つ、現・熊本市西区高橋
 段ハ、當四月十七日及達候通候處、右一件御取計之儀ハ      
 高橋町立行之為ニて、既ニ被及御達候上之儀付、今更御
 差留ニ相成候ては下方氣受ニも懸、於御役前も難相濟由、
 委細御内意之通候ヘハ無餘儀事ニも有之候得共、御存念
 通之御取計ニ相成候ては、細工町船屋共生産之妨ニ相成
 候由、右船屋共貸船を以産業ニいたし候儀は數年之致來、
 旁全御存念通之御取計は難叶事ニ有之候得共、前文御内
 意之通ニ付及僉議、磧所せかり居候内、右磧上ニ平田船      せかり=狭かり→「閉まっている」の方言「せかっとる」
 六艘登せ置、高橋町より積登せ候荷物運送いたし候儀は
 勝手次第相心得候様、尤、御用船と唱候儀は難叶、且又
 右六艘之船ニて致不足候分は、今迄之通、細工町船屋共
 致所持候船を借受可申候、右之通被仰付候上は、都て坪
 井川筋・高橋川口迄、通船之仕法不被究置候ては、後年
 煩敷筋可被出來哉も難計候付、以來左之通
一石塘磧所明キ居候節、高橋町より積登せ候荷物、商賣品
 は勿論、御用物・御家中荷物共一切、高橋町之船を以、
 何方迄も積登せ可申事
一右同断之節、熊本より積下候荷物は、御用物・御家中荷
 物共、細工町船屋共船を以本船迄積越、商賣荷物は高橋
 町迄積参か申事
一前條磧所せかり居候節、前文之荷物磧所下は、上下共都
 て高橋町之船を以致運送可申事
[朱書]「文政九年八月細工町船持共之依頼、已後石塘磧せ
 かり居候節、磧上ニ高橋町六艘登せ置候儀難成、磧上ハ
 都て細工町船荷積、磧下ハ都て高橋船荷積と分別被仰
 付、磧明り居候節ハ、文政二年相究居候通ニて被閣段及
 達候趣、四ヶ所町諸達扣高橋町之座ニ有之候事」
一右同断之節、磧所上下り荷物は、細工町船屋共船を以致
 積方、登り荷物は高橋町より積登せ可申、尤手船六艘ニ
 て不足之節は、細工町船屋共より借船いたし可致積方事
一前條之ことく致通船候節、高橋町之物共、細工町船屋共
 も手船及不足候ハヽ、相互双方より致借船、他所之船を
 借り候儀は難叶候事
  但、本行之趣相互致借船候儀ニ付、双方共貸船賃錢之
  儀は熟知ニ申談、不可致高直候事
 右之通被究置、細工町船屋共えも及達候段、高橋町御奉
 行え及達候事

 四六 文政六年十一月
一御蔵御年貢拂之牛馬幷荷付馬等、御花畑裏御門前下道牽
 通、在馬と町馬行逢候節之儀付て、今度在中より願出候
 趣有之、以來町馬は下道川端之方往來いたし、御年貢拂
 之牛馬ハ下道土手之方ニ寄牽通候筈ニ相究候間、行逢候
 節は御年貢拂之牛馬ニ對、強儀之仕形等不仕、川端之方
 往來いたし候様との儀、馬差甚兵衛え及達候様、驛馬受
 込別當え及達候事

 四七 同八年八月
一町馬取扱入念候様との儀、兼々御達之通候處、御蔵米付
 下等之節、口牽共我勝ニ馬を馳せ、往來之妨は勿論怪我
 人も難計、馬之痛ニも可相成候、其上不法ニ馬を打たゝ
 き候者も有之、重キ御役方見及も被致候由、追々示方不
 相用不届之事候、以來右躰之儀有之候ハヽ、名前承糺せ
 其分ニては被指通間敷候條、此段、馬士幷口牽之物共迄
 不洩様人馬會所え呼寄、委敷合點いたし候様可申示旨、
 馬差甚兵衛え致通達候様、驛馬受込別當え書付相添候
 事

 四八 文政九年十一月
一近御郡ニて買集置候俵物類、村々作馬を以熊本町牽通向
 々迄村越候付、馬士共迷惑いたし候付、以来津端其外所
 々え付越候商賣荷物、熊本町は夫々継替候様、若無據譯
 有之候ハヽ、其段人馬會所え相答上荷錢差出、人馬會所
 之印鑑を以牽通候様、先年御達ニ相成居候處、年久敷相
 成候付、間ニは心得違之物も難計、以來彌以右之通相心
 得候様、御郡中一統被及御達候間、人馬會所えも相達候
 様、驛羽化受込別當え及達候事
 

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■雨の中散歩

2019-02-19 10:34:02 | 徒然

 皆勤の朝散歩(時折・昼・夕)は237日目になった。
今日は朝から珍しく雨模様である。雨の中とはいえごみ捨てに出なければならない。
奥方が一月ばかり入院して以来、ごみ捨ては私の担当になってしまった。
今日とてあまり遅くなるとごみ収集車が通り過ぎてしまう。
雨の勢いに少々躊躇していたが、4・5㎜という感じの雨の中にごみ袋を提げて出発、ごみを処分後そのまま約45分ほどを散歩する。
今日は雨なのだが気温は上がりそうな予報、自衛隊前の桜並木の花芽を気にしながらすすむ。
正門を過ぎて左折すると、熊本市民病院の建設現場が見えてくる。
昨日はシートに覆われていた外装部分が一部顔を見せていた。昨日一日で足場も含め取り除かれ年末オープンの足音が聞こえる感じ。

             左手道路沿い部分の低層階部分が姿を見せていた

大きな傘をさしてあるいたが、横雨ではなかったものの、ダウンの背中はすっかり雨に叩かれ足元はびしょ濡れである。
今年も花粉症とみえて、目がかゆく鼻水が止まらない。今日は雨のせいで花粉もすこしは静まってくれるか・・・
喜寿爺も何とか元気です。


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■S家所蔵の熊本城の瓦

2019-02-19 07:19:40 | 史料

                                   

               ▲金箔が残る桔梗紋瓦

               ▼慶長四年八月の銘がある滴水瓦

                   

 先に「家系研究・山形家」(2)でご紹介した第58号に掲載されている、同家ご子孫が所蔵しておられる熊本城の瓦である。
今般鮮明な写真の提供を受けたのでご紹介する。
上▲は「清正公ご寝所」に葺かれていたとする金箔が残る桔梗紋の瓦である。
専門家の見解によると「伝来の経緯が怪しい」とのご指摘があったそうだが、これは「清正公ご寝所」の瓦であるという事に対する見解ではなかろうか。入母屋屋根の隅棟先端部かと考えたが、厚みがなく形からするとそういった殿舎のものではないように思える。
さてどのようなところに使われたものだろうか、素人判断は止めておこう。
下▼は慶長四年八月の銘がある「滴水瓦」であり、熊本県内でも数点しか存在していないとされる大変貴重なものである。
欠損部分も小さく状態も良くてすばらしい。

 山形家は遡ると「山根」氏・「村」氏と名乗られており、備後から肥後に入国して加藤清正に仕官し、慶長・文禄の役にも出陣しておられる。
加藤家没落後細川家に仕官され山形姓となり、細川家入国後加藤家の「桔梗紋」の瓦が九曜紋の瓦に差し替えられた折、瓦を頂戴して代々保管されたものだと伝えられる。

こういう品物は発掘などの経緯がはっきりしたものでなければ、なかなか真贋を含めて認められない傾向があるようだが如何だろうか。
科学的な調査が行われれば作成時期の特定などは容易にできるだろうと考えるが・・・

写真のご提供に感謝申し上げる。


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