津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■文久三年「恕斎日録」(4)

2020-07-05 17:05:46 | 恕斎日録

19
  十日 右御通行ノ節 献立之儀 中国表迠 南関より役
    人を差立 外聞を出し置候処 早瀬川十之進出会ニ
    而 今度藝州廣嶋へ  顕光院様御滞在之節ハ 不
    怪御饗應ニて御供 御女中共迠 御馳走有之候間 乍
    恐御在泊にも拘り候事ニ付 御女中迠ニ者相應馳走
    いたし候様 申来り候間 丼趣を以 永屋より荒木氏
    へ相伺候処   太守様御通行之節動揺ニ而 可宜
    との事ニ候処 此節より御取締ニ付 肴者御次通り
    二種ニ而相済 夫迠に而 甚以心痛いたし候間
    強而 右之意味を相述候処 荒木氏より左候ハヽ
20
    御女中迠ハ少し共ハ心持可宜候との事ニ付 今夕
    永屋小子宅へ参り咄合 献立左之通
     御老女中江
      菓子 上包  吸物 有合品一種  硯蓋 五品  大鉢 弐ツ
      丼 壱ツ
     並御女中へ下宿共
      菓子 中包  吸物 一種  大鉢 弐ツ  丼 壱ツ
      膳 御老女並御女中共ニ
      飯 太白  汁  坪  平  皿
     御本陣詰御小姓頭御用人以下士席以上
21
      大鉢 壱 春寒又ハさしみ  丼 壱
      膳  飯  汁  平  菓子ハ干柿之類

   今日より風邪ニ而病中引入候事
 十一日 十三日之御封来候処 下関御渡海一日御延引ニ付
     一日御止宿被成候事
   御二方様 来ル十三日南関  御昼休之御封来ニ付
   今日より出立之筈候得とも 一昨日より之風邪ニ付
   今日より出立出来かね候間 助勤緒川次郎助今日より踏
   出シ 御道筋等見分之事
 十二日 今日早天より踏出候 南関迄日着之筈ニ候処
   早朝 深水東吾へ見せ 明日迄之処ハ月代ゆるし
22
   不申候ニ付 若 明日御通行之節者 御前通も出来
   かね可申
   御前様江も気ル十六日南関  御泊座候ヘハ 中国
   ニもご案内有之 双方冝り両人ニ而ハ不安心ニ付
   岩崎へ紙面を以申向候処 小子宅へ永屋同道相見
   俄ニ片山を相招 同氏へ助勤相頼候処 無異儀 受合
   ニ相成 小子者長髪乍四比より打立 片山者尚其
   跡ニ而 出立 助勤之事
   廣町善行寺 御小休所見分 此所ニ而堅山来着 御
   女中御先立通行 片山ニ者中富之方受持相頼 當会
23
   所之様ニ案内為致 小子ハ山鹿馳通り直ニ御道筋見
   分 南関着 西福寺小川相宿
    山鹿町はつれニ而 古庄新五追懸来り 一日御
    延引之御封来之段 相知セ候に付 明後日迠ニハ
    月白いたし可申 南関之方ハ堅山助勤不及 中富迠
    助勤いたし呉候様 申遣候事
      右申継 間違跡達ニ而 申分有之 岩崎取扱に
      而 新五出府相断申候ニ付 相済候事 委細者
      上下達物記六在り
24
 十三日 雨天 今朝紙面を以 片山ヘハ南関へ参るに不及
   候段 申向候処 塗中ニ而□着 且 新五申継間違等
   ニ而 今夕此所迠来候事
   今夕 河野簡斎宅
   鳳台院様 御昼休ニ付 同所見分 小川・片山同道参
   り候事 亭主よりも 奥方罷出 案内申来饗應候事
 十四日 今早朝 月田いたし 御境目迠出迎申上候事
   今日巳ノ上刻  顕光院様  鳳台院様御孕之御行
   列ニ而 御境目被遊御入込 同所ニ而  御目見申
   上  御駕御ニ付御供ニ而 南関御客屋迠  顕
   
     
      
      

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■「田川キリシタン少史」-(3・了)

2020-07-05 06:00:57 | 歴史

       『田川キリシタン小史』(3・了)       小倉藩葡萄酒研究会 小川研次

エピローグ
豊前小倉藩のキリシタンは「金山」という極めて閉鎖的な地帯に流れ込んだ。
それは信仰を固守するための希望にも繋がったが、山法により労働力の流動化をもたらした。
神のため、生きるために北へ向かっていった者もいた。しかし、それは単なる労働力の確保だけではない。藩主のキリシタンへの「思い」があった。
当時、キリストの説「愛」という言葉はなく、「御大切」と言われていた。小倉藩のキリシタンを語るには細川ガラシャ抜きには語ることができない。

忠興と忠利の「御大切」の原点はガラシャにある。
細川家豊前小倉藩時代の三十二年間に及ぶガラシャの御霊救済への祈りは、藩内キリシタンの心にも通じている。
特に忠利の一貫したキリシタン擁護の姿勢が如実に表している。
イエズス会『一六一一年度日本年報』に伊東マンショやカミロ・コンスタンツォが去った後、中津にいた忠利は「私の魂は聖なる信仰の同じ流れの中にあり、それが報いられないのは遺憾である。(司祭に)自らの判断で、来たいときにはいつでもキリシタンを訪ねられるよう許可し、将来のためにも大きな希望を与える」と宣言したとある。
ここに私は「キリシタン忠利」を思うのである。(忠利は幼少時に母ガラシャにより洗礼を受けた可能性がある)
「金山」キリシタンに寄り添ったのは、小笠原玄也家族である。
そして、彼らが最も試練を与えられた地が田川郡だったのである。
細川家肥後転封後に小倉藩からの逃亡者が四七五人もいたというが(『江戸城の宮廷政治』山本博文)、多くのキリシタンがいたのではなかろうか。
そして、何よりも訴えたいことは、細川家と彦山の関係である。驚く事に金山と山伏の彦山入峰経路が一致するのである。
秋峰は彦山から添田、大行事、今任、伊田と北上し弁城宿→上野宿→上境→福地山に至る。
帰路は豊前企救郡と田川郡の郡境の尾根から木部宿(金辺)→古宮→(鈴
麦)→龍鼻宿(竜ヶ鼻)→香春祇園堂→(中津原)→赤村となる。(『秋月街道』)
金山開発のきっかけは鉱石である。山伏は間違いなく、その情報を細川家に伝えている。
それだけではなく、キリシタン鉱夫の保護も行なっていて、潜伏した神父の移動や穿鑿の情報など協力していた元山伏らが、小笠原玄也をリーダーとする信徒組織にいたと考えられる。

元和三年(一六一七)に二人のキリシタンが筑後で殉教があり、元高良山の山伏であったという。(『日本切支丹宗門史』)
不思議なことに、忠利小倉藩主時代にキリシタン容疑で処刑された者が、一つの例外以外にいないのである。
寛永元年(一六二四)九月十七日の『日帳』に「成田喜右衛門」というキリシタンが家臣が「転ぶ候様にと色々意見申す」が、棄教しなかったので成敗されることになったとある。
これが『日本切支丹宗門史』によると「ある大名に仕えていたトマス・キエモン(喜右衛門)は、小倉に流謫されていた。
仏教徒の妻の両親から、キリシタンと告発され、役人たちからいろいろ誘われたが、無駄であった。

当時、不在の藩主にこのことを報告した。
四ヶ月後に、トマスを死刑にせよとの返事が来た。(中略)十二月一日に斬首された」とあり、より詳細に知ることができる。
他国の人物が小倉に流謫されていたということは、幕府の命令である。処刑も忠利の命令ではない。
寛永九年(一六三二)十二月六日、忠利は転封先の肥後国を目指して小倉を立った。
キリシタン家臣と小笠原玄也家族を伴っていたことは言うまでもない。
『日本切支丹宗門史』によると「筑後を経て」とあり、秋月街道を通っている。
そこで「ビエイラ神父は、この行列に出会った」とあり、大阪へ向かうイエズス会代理管区長のセバスチャン・ビエイラと忠利は遭遇していた。
さらに、ビエイラが目の当たりにしたのは「夥しいキリシタン達が、信仰を否定する危険に身を晒さぬために、避難所もなく、幾つかみかの米の他に食物がなくて、山の中で暮らしていた」ことであり、そこは田川郡の金山であったのである。
『香春町史』によると、香春町長福寺(後の光願寺)の絵踏はずっと時代が下ってからで貞享三年(1686)からである。
文政十二年(1829)の金田手永大庄屋の記録によると絵踏をした者は七九三人、踏まなかった者は二〇七八人とあり、圧倒的に踏まなかった者の方が多い。
これはキリシタンがいたということよりも、この時代は宗門改が民衆統制の年中行事となり、絵踏自体が形骸化していたのである。(『近世日本豊後のキリシタン禁制と民衆統制』佐藤晃洋著)
門前には出店などがあり、お祭り騒ぎだったそうである。
しかし、嘉永三年(1850)三月に金田村から九人、大熊村から三人のキリシタンが摘発されている(『金田町史』)ことから、潜伏キリシタンがいたことは間違いない。
先述したが、元和九年(1623)には、田川郡では既に石炭発掘を行っていた。
百年後の享保五年(1720)から、豊前赤池から焼石(石炭)を筑前の漁船の照明用や塩浜の製塩用に送ることになった。
やがて天明年間(1781~1788)には、石炭業が一大産業となり、他国への輸出も始まった。(『金田町史』)
大熊村や金田村には、多くのキリシタン鉱夫が働いていたのだ。
大正三年(1914)十二月十五日午前九時四十分、方城炭鉱(現・日立マクセル)の大爆発が起きた。
死者六八七名の犠牲者を出した日本最大の事故で、世界で三番目という炭鉱災害である。(『方城町史』) 世に言う「方城大非常」である。
悲劇の地は奇しくも二九〇年前に長州から来た柿波治郎兵衛が金山事業で成功し、「盛大にして四集の民忽ち市街を成す、之を金山町と云う」(『方城町史』)この町であった。(日立マクセルと福智町弁城宝珠は隣接)
多くの家族を失った。孤児だけで七八四名という。
身寄りのない少女かずえが、父親の死体確認に行くことになる。
「かずえはまだ数えで十一歳の少女であった。二十分後、賢吉はかずえを掻き抱くようにして棺の前まで連れてきた。
係の者が蓋を開いた時、賢吉の身体から一瞬血の気が引いた。」
「ちがう。父ちゃんばこげん格好ばしとらんやった。ちがう!父ちゃんやなか!」
「わかった。わかった。兄ちゃんも男のくせして、こげん泣いちょるばいな。
父ちゃんやな…。かずちゃんが、父ちゃんやち言うてくれんと、父ちゃんばいつんたっても極楽さい往かれんごつなるな、父ちゃんやな、違いのなかね…」
かずえは賢吉の胸の中で、やっとうなずいた。(『方城大非常』織井青吾)
事故当日、入坑寸前に助かった出口松浩氏は、約二七〇メートルの立坑の底から吹き上げてきた小さな像を目にする。(『広報ふくち』福智町)
それは「マリア像」だった。
                         (了)

 

                    田川市石炭歴史博物館所蔵


参考文献・引用資料
レオン・パジェス『日本切支丹宗門史』岩波書店、一九三八年
姉崎正治『切支丹迫害史中の人物事跡』同文館、一九三〇年
『大分県史近世篇Ⅱ』大分県総務部総務課編、一九八八年
菅野義之助『奥羽切支丹史』佼成出版社、一九七四年
武田久義『友子の一考察(二)』一九九三年
ゲルハルド・フーベル『蝦夷切支丹史』北海道編集センター、一九七三年
村串仁三郎『徳川時代の金堀友子に関する考察』一九八二年
内田圓治『小倉藩政時状記』福岡県史資料五輯、福岡県編、一九三二年
青地礼幹『可観小説』「鳩巣小説」より金沢文化協会、一九三六年
『福岡県史』近世史料編、細川小倉藩(一)(二)(三)、西日本文化協会、一九九〇年
後藤典子『小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景』熊本の大学永青文庫研究センター、二〇一八年
『郷土史誌かわら』第二集、一九七四年
『郷土史誌かわら』第六集、一九七六年
『秋月街道』福智町文化財調査報告書 第一九五集、福岡県教育委員会、二〇〇四年
古賀康士『近世初期細川小倉藩の鋳銭事業』二〇一六年
佐藤孝『英彦山の史跡と伝説』葦書房、一九八七年
『新・肥後細川藩侍帳』「肥後細川藩拾遺」
『綿考輯録』第二巻、第三巻、忠興公(上) (下)、汲古書院、一九八八年
上妻博之編著 花岡興輝校訂『肥後切支丹史』エルピス、一九八九年
塩見弘子『悠遠の人高山右近』ドン・ボスコ社 二〇一七年
山本博文『江戸時代の宮廷政治』講談社、二〇〇四年
松田毅一訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第一期全五巻、第二期第一巻、全三巻、同朋社
村上直二郎訳『イエズス会日本年報』上、雄松堂、一九七九年
山崎一郎『十八世紀萩藩における文書管理・記録作成と藩士柿並市右衛門』
岡部忠夫『萩藩諸家系譜』琵琶書房、一九八三年
『萩藩閥閲録』山口県文書館、一九六七年
高鶴元『上野・高取・八代・小代』日本陶磁大系第十五巻、平凡社、一九九〇年
李義則『陶磁器の道』新幹社、二〇一〇年
『熊本藩年表稿』細川藩政史研究会、一九七四年
松田毅一『近世初期日本関係南蛮史料の研究』風間書房、一九六七年
佐藤晃洋『近世日本豊後のキリシタン禁制と民衆統制』
梶谷敏明『彦山・岩石城と佐々木小次郎(下)』ブイツーソリューション、二〇〇九年

『萩市感光協会公式サイト』
『阿武町役場ホームページ』
『小倉藩人畜改帳』大日本近世史料、東京大学編纂所、一九五七年
『方城町史』方城町編纂委員会、一九六九年
『香春町史』上下、香春町史編纂委員会、二〇〇一年
『金田町史』金田町史編纂委員会、一九六八年
伊東尾四郎『企救郡誌』ナガリ書店、一九八三年
『豊前村誌』
『福岡県百科事典』下巻、西日本新聞社、一九八二年
『角川日本地名大辞典』「福岡県」、角川日本地名大辞典編纂委員会、一九八三年
織井青吾『方城大非常』朝日新聞社、一九七九年
『広報ふくち』福智町、二〇〇七年十二月

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■細川小倉藩(282)寛永五年・日帳(四月十六~十九日)

2020-07-05 05:59:02 | 展覧会

                      (寛永五年正四月)十六日~十九日 

         |     
         |    十六日         
         |     
逸隼ヲ居上グ   |一、昨日それ申候隼、相見之原ニ居候由をニ而、菅村権十郎すへあけ被参候、則山本二郎被請取候事、
         |

         |     
         |    十七日         
         |
彦山へ岩茸取   |一、彦山へ、岩茸取可遣旨、被成 御意ニ付、御長柄衆源六を遣候処、座主ゟ山伏へ御申付候て、御
座主山伏ヲシテ採 |  取せ候由ニ而、ひけこ壱つ持来候事、
ラシメ鬚籠ニテ進 |
上ス       |
         |                      中津ゟ
花一本竹筒ニ入レ |一、小道具勘四郎与助市、花一もと竹ノ筒ニ入、持来候、則左膳殿奉ノ由ニ而、 御切帋持下候、御
中津ヨリ持来ル  |  花畠ニさゝせ可申旨、則小堀長左衛門所へ持せ遣、念を入さし置候へと申遣候、但、可然所ニ見
花畠ニ挿木セシム |  合、さし候へと申遣候、
         |      (宇佐郡)        奉   左膳殿ゟ参候、
         |一、竹田了由津房へ可参旨、被成 御〇書、〇則被参候事、
忠利宇佐津房巡見 |一、右之御奉書ニ、今日ハうさへ被成御泊、明日壱八日ニ津浦へ被成御座由、被仰越候事、

国東郡前代官ノ算 |一、後藤定林・恵良半右衛門尉御しちやニ而、御算用ニ付、筆かた/\、すミのすりくつ壱つ、高
用吟味ニ筆墨ノ用 |  田各左衛門・下村五兵衛ニ渡申候事、
服忌       |一、佐田源丞、此中ハ親ノいミ御座候ニ付、登城不仕由ニ而、被参候事、
鷹師姉ノ弔問ヨリ |一、御鷹師富田彦右衛門姉石見ニ居申候か、相果申由申来ニ付、御暇申上、先日被参候、一昨日罷帰
帰着       |  由ニて、登城候事
         |

         |     
         |    十八日         
         |
宇佐善光寺ノ茶屋 |一、宇佐善光寺之御茶屋、座敷の床あかりさかり御座候而、事外 御意ニ不入、今日仕直嘉申旨、

作事仕直シ    |                   (可政)  (立成)
         |  御意之由、三宅勘十郎奉之由ニ而、加々山主馬・道家左近右衛門添状にて、夜前次飛脚にて申来
         |  候、則林弥五左衛門ニ申、又上野文左衛門申付、差遣候事、
         |   (正安)備中庭瀬藩主
戸川正安ヨリ飛脚 |一、戸川土佐守様ゟも御飛脚壱人、文箱持参申候、式ア殿ゟ被仰候ハ、次飛脚ニ而、津房へ持せ、上
         |  ヶ可申由、被仰ニ付、則次飛脚ニ而差上申候、加主馬・道家左近右衛門所へ、そへ状遣候事、
         |               (へ脱)
         | (吉田浄元)             殿様御上候御状弐つ、
吉田浄元幷しやう |一、盛方院幷しゃうこん院ゟ参候御状たゟ次第、上ヶ可申由ニ而、式ア殿ゟ昨日持せ被下ニ付、右ノ
こん院書状    |             〃〃〃〃(便)
         |  次飛脚ニ持せ、上ヶ申候事、
         
         |     
         |    十九日         
         |
三斎歯痛ニヨリ三 |一、三斎様御歯うつき申ニ付、三官を可参由、牧左馬殿中津ゟ被罷帰候ニ、被 仰付ニ付而、今日三

官ノ治療ヲ求ム  |  官御馬ニ乗せ、遣候事、
宇佐善光寺風呂屋 |一、うさ善光寺御風呂やノ諸道具見苦候間、可仕直由、被 仰出旨、三宅勘三郎所ゟ被申越ニ付、新
ノ諸道具仕直シ  |       三人                  (喜左衛門)(與兵衛)
         |  敷申付、次夫ニ持せ遣候、但、送切手ハ、金子・中神ゟ遣被申候事、
         | (田川郡)        (具脱)
香春茶屋ノ諸道具 |一、香春之御茶や諸道も、金子・中神ゟ送切手ニ而、自夫七人ニ持せ遣候事、
         |
田屋作兵衛上方ノ |一、田屋作兵衛弟上方ニ有之候処ニ、きりしたんにて候つるにより、被立 御耳、御いとま被申、罷
弟きりしたんナル |   己ニ大=異
ヲ転バシム    |  上■見を仕ころはせ可申由にて、被罷上候、昨日罷下由にて、登城仕候、則弟ニきりしたん
転切支丹ノ書物  |  ころひ申由ノ書物をさせ、被持下候事、
         |
宇佐ノ草花ヲ路地 |一、御路地之伝三郎と申もの、宇佐迄御供仕参、宇佐にて草花御とらせ被成、御花畠ニうへさせ可申
ノ者ニ花畠へ移植 |  旨、 御意ニ付而、宿送にて持せ越、御花畠ニうへ申由にて、一枝持候て登城仕候、但、二かふ
セシム      |  にて御座候由申候、
         |   (勝之)佐久間盛次四男・信濃長沼藩1万8,000石の藩祖
佐久間勝之ヨリ蠟 |一、佐久間大膳殿ゟ御音信之由ニ而、蠟燭箱弐つ、田屋治ア右衛門尉持下候事、
燭を贈ラル    |
天守ノ魚油樽ノ封 |一、御天主ニ御座候魚の油樽、前廉苻を付置候処ニ、ねすミくひ申候ニ付、御油坊主恵山と、御鉄炮
印鼠ニ食ハル   |    (勝永)
         |  衆寺尾左介与堀勘丞、此両人ニ相封を付させ申候事、
兵法遣雲林院弥四 |一、砂金壱数、御帷子三つ、御単物弐つ、此分兵法つかひ弥四郎拝領仕候事、
砂金等ヲ拝領ス |



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