二日前のブログで些か仰々しく■ひょっとすると・・ある歴史が塗り替えられるかも?なる記事を書いた。
少々興奮気味であって反省しているが、その内容は以下のようなものである。
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世の中に「一木三銘」とも呼ばれる名香がある。(細川家では初音、後水尾帝に献上の品は白菊、伊達家の末木は柴船と銘せらる)
綿考輯録には次のように記されている。
去々年、交趾江渡船せしもの帰国、伽羅持参いたし候、
三斎君白菊と御名付、其箱の蓋に御自筆御書付
寛永元年交趾江
渡船同三年ニ来
伽羅白菊と名之
たくひありと
誰かは
いはん
すゑにほふ
秋より後の
しら菊の花
箱長八寸四歩、横七寸六歩、高八寸、板厚サ三歩半、
桐之木地ふたハさんふたなり、伽羅木指渡五寸余、
長サ八寸余、外ニ三四寸之木懸目三百目有之、添居
申候由なり、
長崎で求められた香木は本木と末木とがあり、本木を細川家が求め、末木を仙台伊達家が求めた。
この香木を求めるために派遣されたのが、沖津弥五右衛門と横田清兵衛であった。
そして本木を求めるか、末木を求めるかで両者は争論となり弥五右衛門が横田を殺害したとされる。
三斎は横田の遺児を呼び、弥五右衛門を仇と思わぬように諭して和解させている。しかしながら横田の遺族は豊前をはなれ、隣国筑前へ離国したとされている。
寛永三年の御水尾上皇の伏見行幸の際には細川家から本木の一部が献上され「白菊」と命名された。
その名香木には横田清兵衛と遺族の怨念に包まれていることになるが、そのような香木を進上したのだろうか。
真実はそうではないようだ。
私はつい最近、「小倉細川藩」をタイピングする過程で、これらを否定する記事を見出した。
「一木三銘」の名香と、弥五右衛門が横田清兵衛を討ち果たしたという事実は、時系列的に成立しないことが判る。
その記事は寛永五年六月十五日の日帳の中に存在する。(当該記事は明日UPする)
近々小黒船五艘、柬埔寨船三艘、ほくちう船二艘が長崎に入港する旨の報告があり、その記事の中に「御買物奉行ニ被遣候沖津右兵衛・横田清兵衛申由ニ御座候」とある。右兵衛とは弥五右衛門の前名であり、姓も当時は沖津であった。
「一木三銘」の香木は寛永三年に購入された旨の三斎自筆の箱書きがあり、これはゆるぎない事実である。
しかし、寛永五年六月十五日現在、沖津右兵衛(弥五右衛門)と横田清兵衛の存在が認められ、是迄語られてきた事柄は間違いであることがわかる。
ウイキペディアで「一木三銘」で検索すると、多くの記事がみうけられ、そのすべてが綿考輯録の記事に準拠している。
興津弥五右衛門は細川三斎の君沢を得たとして、三斎の三回忌にあたり、京都の地で美々しく切腹に臨んでいる。
おおいに違和感を感じざるを得ない。
綿考輯録の編者小野武次郎は下の如く記している。
「君沢追腹せしゆヘハ、弥五右衛門寛永元年三月長崎に役して有し時、名香を持来りて価何程と云ふ、弥五右衛門思ふに、何とそし調へ主人に奉らんと、相役横田清兵衛ニ由を斯と談ずるに、如何思ひけるにや清兵衛曽て談に応せす事、緩々としては佳品手に入す、依て清兵衛を只一刃に殺し、一存に任せ彼名香を得て委細を忠興君に達しぬ、君聴て感悦斜ならず、加恩群にこへ清兵衛無骨の至り、従類必す所存を嗣へからすと制し給ふ、弥五右衛門正保のゆふへ迄存命せしハ君恩なれハ心能切腹せしとなり、名香ハ白菊とて世以て知れりと云々」
そして武次郎は「考ニ少しいふかし」とも書いている。「少しいぶかしい」事とは何を指しているのだろうか。
ここで武次郎は「寛永元年三月長崎に役し」と記すが、三斎の箱書で明らかなように、此の銘木が手に入ったのは寛永三年のことであり、ここにも錯誤が有るのである。
御存知のようにこれ等一連の事件は森鴎外の小説「興津弥五右衛門の遺書」で一気に承知されることになった。
つまり間違った情報が拡散したことになる。
私のような一介の市井の人間が偶然発見した寛永五年のこの記録は、研究者の目に留まることなく今日まで闇の中にあったのだろうか。「福岡県史・近世史料編‐細川小倉藩」の刊行に当り、日帳の読み下しにあたられたり、校訂に携われた方々の御目には触れていることは確実なのだが・・・。
森鴎外は明治天皇の崩御と乃木希典の殉死を目の当たりにして、わずか数日を以てこの作品を書きあげている。
神沢杜口の記録資料「翁草」の中の「細川家の香木」からヒントを得て書いたともされている。
もっとも、のちには手を入れられたり加筆などもあったようだが、其の史料として細川家の家政所のFなる人物の協力を得ている。綿考輯録の記事であろうか。
一方鴎外は「興津又二郎覺書」「興津家由緒書」等を資料として手に入れている。これは現在鴎外文庫の所蔵する処になっている。
肝心の興津弥五右衛門の先祖附「弐百石・興津宗也」では、この事件の日時など詳細については触れられていない。
唯、「三斎様被聞召上御吟味候処清兵衛儀始末不届ニ付 弥五右衛門儀者被成御免 前々之通相勤申候」としている。
三斎は横田清兵衛について「始末不届」としたと記しているが、真相のほどは闇の中である。
これ等のことから、沖津弥五右衛門が横田清兵衛を殺めたことは間違いなさそうである。
それは何時であったのだろうか。
「細川家の一木三銘」の香木購入(寛永三年)と、寛永五年以降に起こったと思われる弥五右衛門の横田清兵衛殺害事件の二つが、一つのものとして言い伝えられ、鴎外の小説によって流布されたと考えられる。
日帳にはこれに関係するのではないかと思わせる記事が一二認められる。
■七月十九日・日帳(細川小倉藩・二 p56)
交趾ゟ調参申御伽羅注文
一、御伽羅拾三斤四十三匁五分
貫目ニテ、弐貫百弐十三匁五分
右代銀五貫七百六匁九分 壱斤ニ付、四百卅目宛、
百目ニ付、弐百六十八匁七分五リン宛
右之御伽羅上中下も可有御座候へ共、上斗ははなし申候てハうり不申ゆへ、右之通ニ買調、
上ヶ申候、 御前可然様ニ、被仰上可被下候、以上 とい
七月九日 間小左衛門
浅山修理殿
田中兵庫殿
■九月八日・日帳(細川小倉藩・二 p83)
一、沖津作太夫儀、右兵衛手前不慮之儀に付、中津ニ御預ヶ被成候間、罷出候儀如何と存候へ共、
御前もやわらかさうニ御座候ニ付、罷出申由申候事、弥五右衛門□は煩故、不罷成候由、作太
夫申候事
この記事の作太夫とは弥五右衛門(右兵衛)の次弟(宗也三男)で「元和六年被召出、百五十石被下」ている。
宇兵衛の「不慮之儀」とはいかなることであろうか。
弥五右衛門の横田清兵衛殺害事件は、見るべき資料が見当たらずこれらの謎解きは、市井の爺さまにはとても手に負えるものではない。
何方かが、このブログをご覧になって、解決に尽力していただければ幸いに思う所である。