津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「一木三銘」の名香木購入時の、沖津弥五右衛門同僚殺害の逸話は間違いだった・・・

2020-07-30 14:30:27 | 歴史

 二日前のブログで些か仰々しく■ひょっとすると・・ある歴史が塗り替えられるかも?なる記事を書いた。
少々興奮気味であって反省しているが、その内容は以下のようなものである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
世の中に「一木三銘」とも呼ばれる名香がある。(細川家では初音、後水尾帝に献上の品は白菊、伊達家の末木は柴船と銘せらる)
綿考輯録には次のように記されている。


           去々年、交趾江渡船せしもの帰国、伽羅持参いたし候、
           三斎君白菊と御名付、其箱の蓋に御自筆御書付
            寛永元年交趾江
            渡船同三年ニ来
            伽羅白菊と名之

            たくひありと
                  誰かは
                  いはん
                すゑにほふ
            秋より後の
              しら菊の花
          
           箱長八寸四歩、横七寸六歩、高八寸、板厚サ三歩半、
           桐之木地ふたハさんふたなり、伽羅木指渡五寸余、
           長サ八寸余、外ニ三四寸之木懸目三百目有之、添居
           申候由なり、

 長崎で求められた香木は本木と末木とがあり、本木を細川家が求め、末木を仙台伊達家が求めた。
この香木を求めるために派遣されたのが、沖津弥五右衛門と横田清兵衛であった。
そして本木を求めるか、末木を求めるかで両者は争論となり弥五右衛門が横田を殺害したとされる。
三斎は横田の遺児を呼び、弥五右衛門を仇と思わぬように諭して和解させている。しかしながら横田の遺族は豊前をはなれ、隣国筑前へ離国したとされている。
寛永三年の御水尾上皇の伏見行幸の際には細川家から本木の一部が献上され「白菊」と命名された。

その名香木には横田清兵衛と遺族の怨念に包まれていることになるが、そのような香木を進上したのだろうか。
真実はそうではないようだ。

 私はつい最近、「小倉細川藩」をタイピングする過程で、これらを否定する記事を見出した。
「一木三銘」の名香と、弥五右衛門が横田清兵衛を討ち果たしたという事実は、時系列的に成立しないことが判る。

 その記事は寛永五年六月十五日の日帳の中に存在する。(当該記事は明日UPする)
近々小黒船五艘、柬埔寨船三艘、ほくちう船二艘が長崎に入港する旨の報告があり、その記事の中に「御買物奉行ニ被遣候沖津右兵衛・横田清兵衛申由ニ御座候」とある。右兵衛とは弥五右衛門の前名であり、姓も当時は沖津であった。

 「一木三銘」の香木は寛永三年に購入された旨の三斎自筆の箱書きがあり、これはゆるぎない事実である。
しかし、寛永五年六月十五日現在、沖津右兵衛(弥五右衛門)と横田清兵衛の存在が認められ、是迄語られてきた事柄は間違いであることがわかる。
ウイキペディアで「一木三銘」で検索すると、多くの記事がみうけられ、そのすべてが綿考輯録の記事に準拠している。
興津弥五右衛門は細川三斎の君沢を得たとして、三斎の三回忌にあたり、京都の地で美々しく切腹に臨んでいる。
おおいに違和感を感じざるを得ない。
綿考輯録の編者小野武次郎は下の如く記している。
「君沢追腹せしゆヘハ、弥五右衛門寛永元年三月長崎に役して有し時、名香を持来りて価何程と云ふ、弥五右衛門思ふに、何とそし調へ主人に奉らんと、相役横田清兵衛ニ由を斯と談ずるに、如何思ひけるにや清兵衛曽て談に応せす事、緩々としては佳品手に入す、依て清兵衛を只一刃に殺し、一存に任せ彼名香を得て委細を忠興君に達しぬ、君聴て感悦斜ならず、加恩群にこへ清兵衛無骨の至り、従類必す所存を嗣へからすと制し給ふ、弥五右衛門正保のゆふへ迄存命せしハ君恩なれハ心能切腹せしとなり、名香ハ白菊とて世以て知れりと云々」
そして武次郎は「考ニ少しいふかし」とも書いている。「少しいぶかしい」事とは何を指しているのだろうか。

 ここで武次郎は「寛永元年三月長崎に役し」と記すが、三斎の箱書で明らかなように、此の銘木が手に入ったのは寛永三年のことであり、ここにも錯誤が有るのである。

 御存知のようにこれ等一連の事件は森鴎外の小説「興津弥五右衛門の遺書」で一気に承知されることになった。
つまり間違った情報が拡散したことになる。
私のような一介の市井の人間が偶然発見した寛永五年のこの記録は、研究者の目に留まることなく今日まで闇の中にあったのだろうか。「福岡県史・近世史料編‐細川小倉藩」の刊行に当り、日帳の読み下しにあたられたり、校訂に携われた方々の御目には触れていることは確実なのだが・・・。

 森鴎外は明治天皇の崩御と乃木希典の殉死を目の当たりにして、わずか数日を以てこの作品を書きあげている。
神沢杜口の記録資料「翁草」の中の「細川家の香木」からヒントを得て書いたともされている。

          

 もっとも、のちには手を入れられたり加筆などもあったようだが、其の史料として細川家の家政所のFなる人物の協力を得ている。綿考輯録の記事であろうか。
一方鴎外は「興津又二郎覺書」「興津家由緒書」等を資料として手に入れている。これは現在鴎外文庫の所蔵する処になっている。

肝心の興津弥五右衛門の先祖附「弐百石・興津宗也」では、この事件の日時など詳細については触れられていない。
唯、「三斎様被聞召上御吟味候処清兵衛儀始末不届ニ付 弥五右衛門儀者被成御免 前々之通相勤申候」としている。
三斎は横田清兵衛について「始末不届」としたと記しているが、真相のほどは闇の中である。

これ等のことから、沖津弥五右衛門が横田清兵衛を殺めたことは間違いなさそうである。
それは何時であったのだろうか。
「細川家の一木三銘」の香木購入(寛永三年)と、寛永五年以降に起こったと思われる弥五右衛門の横田清兵衛殺害事件の二つが、一つのものとして言い伝えられ、鴎外の小説によって流布されたと考えられる。

日帳にはこれに関係するのではないかと思わせる記事が一二認められる。

  ■七月十九日・日帳(細川小倉藩・二 p56)
        交趾ゟ調参申御伽羅注文
     一、御伽羅拾三斤四十三匁五分
          貫目ニテ、弐貫百弐十三匁五分
         右代銀五貫七百六匁九分 壱斤ニ付、四百卅目宛、
                     百目ニ付、弐百六十八匁七分五リン宛
         右之御伽羅上中下も可有御座候へ共、上斗ははなし申候てハうり不申ゆへ、右之通ニ買調、
         上ヶ申候、 御前可然様ニ、被仰上可被下候、以上     とい
           七月九日                      間小左衛門
            浅山修理殿
            田中兵庫殿

  ■九月八日・日帳(細川小倉藩・二 p83)
     一、沖津作太夫儀、右兵衛手前不慮之儀に付、中津ニ御預ヶ被成候間、罷出候儀如何と存候へ共、
       御前もやわらかさうニ御座候ニ付、罷出申由申候事、弥五右衛門□は煩故、不罷成候由、作太
       夫申候事

  この記事の作太夫とは弥五右衛門(右兵衛)の次弟(宗也三男)で「元和六年被召出、百五十石被下」ている。
  宇兵衛の「不慮之儀」とはいかなることであろうか。

弥五右衛門の横田清兵衛殺害事件は、見るべき資料が見当たらずこれらの謎解きは、市井の爺さまにはとても手に負えるものではない。
何方かが、このブログをご覧になって、解決に尽力していただければ幸いに思う所である。

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■植物採取

2020-07-30 09:46:48 | 徒然

              

 昨日の熊本は34.2度まで上がったが、そんな中どうしても済まさなければならない用件が有って自転車で県立図書館まで出かけた。
未だ梅雨明け宣言がないものの、ド・ピーカンの極暑でふらふらしながら帰宅したことであった。
今日は熱中症にかからないように、早朝散歩に切り替えようと6時過ぎから家を出た。
この時間帯だと、木々の影の下を歩くことが出来て、真上からお天道様に照らされることはない。
今日も距離ではなく、ゆっくりのんびり歩くことにした。
そんな中での植物採取である。つゆ草以外の小さな花を付けた野草は名前も知らない。
根を付けて抜いてきたから、後で鉢に植えこんでみようと思っている。
つゆ草は水揚げしたようだから、備前の小壷にでも活けてみようと思う。
今日は35度超えの予報が出ている熊本だが、コロナ感染者も増えているから終日の巣ごもりである。
さて梅雨明け宣言が出ますかどうか・・・

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■文久三年「恕斎日録」(27)

2020-07-30 07:10:59 | 恕斎日録

195
  九月朔日
  二日  今日吉弘力童 従江戸遺髪持参下着之事
  三日  
  四日  今日被 召出ノ事
     一作方田畑共七ハ分ニ而 民喰心遣仕候儀無之言
      上
     一今度被 召連候在御家人共人撰手配等言上
     一南関御防禦筋川口々々番衛等之儀等言上
       右上下達物帳ニ備録
     一四日之晩吉弘加左衛門遺髪葬式之事
196
      荒木甚四郎方より演舌 今度 御二方様御上京
      者 太守様御名代ニ付 御同様之御振合ニ而一
      郡ニ両人完 東目同役者罷出候様との事
     一今度在御家人引廻者 物場ニ而者重士之場ニも
      被召仕候筈ニ付 着座以上之人躰被差越度内意
      申入置候處 荒木方より御小姓頭ニ而も可差越
      候得とも 在中者共も扱も不なれ之由ニ而 迚も
      同役之内より可被差越候間 人撰申上候様との
      事ニ付 岩崎より申談両人申立候事
       在御家人ハ得物/\持参不苦候 槍も立テ行
197
       候儀ハ不相成候得とも一ツニ括り持せ候儀
       ハ不苦候との事
     一今晩同役之内 村上久太郎・橋本源右衛門両人江
                         (人脱か)
      今度 御二方様御出京御供被仰付 在御家支配
      被仰付候御達之事 内意之通
  六日
  七日
  八日
  九日佳節 御礼出仕
      藤崎宮・祇園社参拝 六所宮参拝ハ来ル十四よ
198
      り十九日迄也
       昨日御達
      方今不穏形勢ニ付 太守様御苦舩被 思召上
      候ニ付 天下泰平・国家安全・武運長久之御祈
      祷 藤崎 祇園 六所右三ヶ所へ被 仰付候
      ニ付 御家中之面々参拝いたし候様との御達
       藤崎 九日八時より七ツ半迄 来ル十二日迄
       祇園 右同様
       六所 来ル十四日より十九日迄               とぎき
     一今日御花畑ニ而 歩ノ御小姓高山秋蔵へ逢候處 同        外聞の京都情報
199
      人儀 長州三田尻迄 為外聞早打被差立候而 昨日
      同所より早打ち罷帰候 同所御茶屋へ三條様御列
      七卿御滞留 禁兵者引払 長州之御人数余斗ニ警
      衛いたし居候 正親町様ハ筑前黒崎江御滞留 追
      而者筑前へ御出之筈之由 同所より御伺ニ成候
      處 勅使ニ御取扱ハ無之由 小倉へ者長崎より
      御和睦之御使者参り 其以後者以前之通御交り
      被成度との由なり
  十日  御連枝御供ニ被召連候無足之面々百人 今日よ
      り出立之事
200
  十一日 今日 御二方様四半頃 此元御発駕 御同勢千人
      余 御二方様共ニ御馬上御陳笠を被召 御小姓
      頭両人 御用人両人いつれも騎馬 御供御側物
      頭同様騎馬 いつれも股引 半切 あしろ笠 黒張立
      を冠り勇々敷御行粧なり
       同役一同 下津氏門前ニ而 拝上いたし候事
      今夕 村上久太郎・橋本源右衛門へ祝酒等送りる事
  十二日 今日同役村上・橋本両人 御家人弐百人引廻出
      立 右百人完 両人宅に而出立懸ニ相揃 門前之祝
      酒を冷酒に而振 同役中者 村上宅へ参り 橋本出 
201 
      立を待合 祝盃いたし 支配/\之御家へも土器
      冷酒ニ而盃を差祝候事 いつれも鯨波之声を揚
      勇々敷出立之事
  十三日 今日より玉名江出在之事
      今日早天より出立 中富手永御家人中 小柳村川
      原ニおゐて操練見分 諸生六十人余也
      中頃より雨ふり出し候得とも 西洋筒ハ雨を凌
      候が第一之用方ニ付不相止打セ 半過ニ誘方中
        (催か)
      幷□合之面々呼出 冷酒ニ万引肴二而元気を為
      附候ニ付 尚更勵ミ合候事
202
      今晩会所泊
  十四日 今朝同所出立 平山村湯所ニ而休ミ 中十丁村入
      込 北原九郎太宅昼休 同人より手酒等饗応 三和
      仁村御境目等見分 吉地村馬口労原作宅止宿
  十五日 関村新番番所見立場見分 和田源太郎制作 相求          五月廿四日「南関鍛冶和田源太郎作ミネエルケヘール壱挺代六百五拾目あい求」とある。
      ミネール筒試打見分 中リ不宜候ニ付新作ニ引替候事
      四ッ山原ニ而南関手永御家人中操練見
       諸生八十人余天気ハ宜候得とも中富同様元
       気付差遣候事

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