文久三年「恕斎日録」を読むために略系図を準備しました。当時の藩主は慶順(ヨシユキ)です。韶邦と名乗るのは慶応四年四月のことです。
+----慶前
| ‖
| 鳳台院(新田藩・細川利用女)
細川齊護 |
‖ -----------+----勇(松平春嶽室)
益姫(顕光院) |
+-----慶順(韶邦)
| ‖
| 一条峯
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+-----護久---------+----護全
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| +-----護立-----護貞-----護熙
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+-----承烈(津軽藩主)
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+-----護美
文久三年早々に薩摩の島津斉彬の子女二人も熊本を通過して薩摩に帰国している。後に藩主夫人となる人である。
続く様に細川家では齊護室・顕光院(浅野益姫)と齊護の嫡男・慶前室鳳台院(新田藩細川利用女)が駕籠を連ねてお国入りをしている。
恕斎はその出迎えに奔走している様が、詳細に記述されている。その数日後には当主・慶順(後・韶邦)室・峯(一条氏)も続いて入国している。
恕斎日録は恕斎の個人的記録であるから平明に記述されているが、色々な苦労の様や、美々しい行列の模様、食事に対する細やかな配慮などが誠に細やかにこまやかで驚かされる。
前の年二年にはいわゆる「文久の改革」が発せられ、参勤交代の緩和や大名夫人・子女の帰国が認められた。
その措置を受けての三貴夫人が肥後入りした。それぞれが初めて目にされる「御国」である。
いわゆる女道中であるから沢山の御女中が連なっている。拝見する人々もさぞかし驚き目の保養をしたことであろう。
恕斎は一行の帰国の報を受け、わざわざ顕光院の出身である芸州浅野家に人を派遣して外聞(情報収集)をさせている。
浅野藩からいろいろ情報の提供を受けているが、後に判る事だが藩の体面上過大に伝えられたらしい。
恕斎のきめ細やかな気配りは、二人の夫人をはじめ随伴の御女中の万来の好感を得たようである。
デザートに「白玉」が供されているが、さしずめ今日の「タピオカ」といったところか、御女中衆は声をあげて感嘆したという。
お代わりを進めると、支払いのことが気になったらしいが、「殿様の御意であるからその心配はいらない」と伝えると、こぞってお代わりをしたという微笑ましい情景を伝えている。
始めてみる「御国」のこうした対応に、不安の気持ちは雲を払い美しい青空を見る思いであったろう。
これ等のことは、次回の「恕斎日録」でご紹介する。
恕斎の記録は当然のことながら自らが郡代として勤める範囲で記録されているが、以降の状況を知ることが出来ないのは残念である。
植木からお城下に入るどのあたりで御城の姿が見えたのだろうか。初めて見る大きな御城の姿が目に入ったときの感激や安心感で旅の最後の足取りも軽やかになったことであろう。
それぞれがどの御屋敷に入られたのか承知していない。
顕光院はのちに風光明媚な江津の御屋敷(現熊本県立図書館)へ、鳳台院は二本木の御屋敷にお入りになった。
時代が変わり、顕光院を尋ねて腹を痛めた娘・勇姫(松平春嶽夫人)が訪れている。
残念ながらこれらのことはあまり重大な事ととられられていないらしく、「熊本藩年表稿」には記載されていない。
私はこのような裏話が大好きなのだが、「恕斎さん、よく書いてくださいました」とお礼を申し上げたい。
これ等のことは、吉村豊雄氏著「幕末武家の時代相」で詳しく解説されている。ご一読をお勧めする。