43 越候へとハ申兼候由申候ニ付未嶋原へさつま
人数参候ニ極たる御さたハ無御座候
一立花殿松倉殿今迠之御持口なべしま殿持口
之方へくり候て右御両人之あと 肥後様へ渡り
今日ゟ御請取被成頼母与一手被遣候 残御人数 頼母=有吉英貴
ハ于今後陳ニ被 召置候事
一右之趣可然様ニ可頼御披露候恐惶謹言
正月九日 半兵衛
諏方猪兵衛殿
佐藤八太夫罷上申候条謹而致言上候
一大矢野にて之儀爰元ニても左様之御さた御
座候へ共実正一切知不申候 能尋重而言上可仕候事
一爰元 上使衆ゟ之御手立之被 仰出何共
御沙汰も無御座候 伊豆殿左門殿去七日に
江戸へ言上被成候而其御諚を承可被仰出との
儀ニ御座候事
一肥後様被成御渡海之儀 上使之御衆ゟ御 肥後様=細川光貞(光尚)
注進ニて被成御渡海候哉と奉存候処ニ左様
二三日前、わがAPの階段に蝉がいるのを見かけたが、今年はまだ蝉の鳴き声をきかないことに気づいた。
昨日は風雨の強い一日で散歩をさぼってしまったが、今日は曇りがちの空模様で風もあって心地よい。
さて歩こうと出かけたら、自衛隊の構内の木立から初蝉の鳴き声に遭遇した。
そこで歩きながら駄句を一句
初蝉や 聞いて暑さのつのりけり 津々
早いもので今日はもう七月、令和二年も半年を過ごしてしまった。コロナ騒動での蟄居生活の中でも欠かさず散歩だけは続けた。
最近は散歩人口がやや増えて、後ろからやってくる人たちがどんどん追い抜いて行く。
暑さばかりのせいではなく、脚力が落ちて所要時間が随分増えたように思える。
奥方が「距離を減らしたら」というが、距離を減らすためにはコースを変更しなければならない。
この暑い夏の間、奥方の言葉に甘えてみようかと気持ちが揺らいでいる。そのままずるずるとなりそうな気もするが・・・
『田川キリシタン小史』(2) 小倉藩葡萄酒研究会 小川研次
細川家と彦山
ちょうじょほうしんのう
彦山霊仙寺(名称英彦山は一七二九年から)の座主は、初代長助法親王から歴代、親王の皇胤が務めてきたが、十四代舜有に嗣子がいなかったために途絶えていた。
慶長五年(1600)に豊前国に入った忠興は翌年、大納言日野輝資卿の三男を養子にし、前座主舜有の遺児昌千代姫と婚約を結ばせた。忠有座主である。(『英彦山の史跡と伝説』佐藤孝著)
忠興は奉幣殿を建立するなど多大なる寄進を納めた。
また、忠興の家臣に仁保太兵衛という変わった経歴の持ち主がいた。
幼少時、忠有座主の元で育てられたという。元和二年(1616)二十七歳の時に忠興に仕えることになるが、七年後には惣奉行と出世している。
細川家と彦山との重要なパイプ役を果たすことになる。
寛保三年(1715)に書かれた加賀藩士青地礼幹の『可観小説』に「細川三斎の家来加賀山隼人」(巻十一)があるが、彦山を舞台にした事件で、当時の状況を知る上で貴重な記録であるので、あらすじを紹介しよう。
不可解な事件は小倉城下で起きた。ある日、弓削田新右衛門の下人が御蔵所中島村の在津庄作方に逃げ込んだ。
新右衛門は再三、庄作宅に下人を返すように訪ねたが、一向に埒が明かない。
ところが、庄作が下人を連れて彦山の祭りに行くところが目撃された。
新右衛門は彦山の庄作の宿坊を訪ね、下人を返すように頼んだところ、庄作は了承した。
しかし、何を思ったのか、庄作は下人の首を落とし、外に出て新右衛門も斬り殺した。
庄作は宿坊に立て篭もったのだが、山伏らに囲まれた。しかし、中島村の百姓が百人以上集まり武器を手に彦山
の庄作宿を目指し、立て篭もってしまった。
これを聞いた忠興は怒り心頭に城中当番以外の家臣一人残らず彦山に走らせた。
そこに忠興寵臣加賀山隼人が現れた。六千石の大身である。
彦山に駆けつけた隼人は、事件解決を任されることになるが、宿坊の亭主を呼びつけ、三百人前の弁当を作ら
せ、丸腰の侍十二人に庄作の元へ運ばせたのだ。
「喰物不足にては働の力よわく、志もくじけ申す可し。士は相互の事に候。」(食べ物がなければ働けなくな
り、志もくじける事になる。お互い様である)と隼人の言葉を伝えると、庄作は「扨も扨も加賀山殿御志指、百
餘人の者ども二世迄も忘申間敷候。」(さてもさても、加賀山殿の志、百人以上の者どもも二代に渡り、忘れな
いことでしょう)と答えた。
夜中に攻め入る多数の意見があったが、隼人はあくまで兵糧攻めを取る。
しかし、翌日夜明け、隼人は一人の小姓と共に、庄作に会いに行く。
庄作は床に頭を付け、「御懇情難報存候」(貴方様の思いやりにどのように報いればいいのでしょう)と告げた。
隼人は庄作を自分の宿に連れて行き、百餘人の百姓に武器を山伏に預けて帰るように言い渡した。
さて、この事件の結末は庄作も百姓もお構いなしの処分だったのである。
忠興は機嫌良く「彦山は肥後か豊前か」と隼人に聞くと「駿河の富士と同然に御座候」と申し上げたところ、忠
興は「これもよく申上候」とさらに御機嫌だったという。
このまま、読むと訳の分からない話となるが、「下人」、「庄作」、「中島村の百姓」そして「加賀山隼人」に形容詞の「切支丹」をつければ、話が通じてくる。
小倉藩領のキリシタンの柱石だった隼人が全責任を負ったのだろう。
加賀藩に、この「事件簿」が残されていた理由は初代藩主(藩祖)前田利家の時代にある。
まず、「切支丹」は禁教とならなければ、事件も起こらない。慶長十七年(1612)三月二十一日に発令されている。
彦山「松会」は二月十四、十五日に催されるので、事件は翌年の慶長十八年(1613)となる。
慶長十八年(1613)十二月にも、発令されるが、翌年の正月に隼人は江戸城大普請の普請奉行に任じられているからだ。
さて、日本のキリシタン柱石である高山右近は天正十六年(1588)から、利家の客将として金沢にいた。
二回目の禁教礼が発令される慶長十九年(1614)正月まで身を寄せていた。何と二十六年間に及ぶ。
隼人はかつて右近の家臣であった。
十歳の時、高山友照・右近父子の摂津国高槻城にてルイス・フロイス(『日本史』著者)により洗礼を受けた。
キリシタン高山右近の背中を見て育ったのである。(『日本切支丹宗門史』)
天正十五年(1587)に筑前国箱崎にて豊臣秀吉が伴天連追放令を発令した。
その時、右近は自らの俸禄、領土(明石藩六万石)を返上し信仰を守ったのである。
この時、隼人は無一物の浪人になった主君に追随しようとしたが、叶わなかったのであろう。(『悠遠の人高山右近』塩見弘子)
その後、右近の親友である忠興に仕えることになる。
隼人は忠興から何度も棄教を勧められるが、信仰を棄てることはなかった。
それは、かつての主君右近の生き様を見ていたからだ。
隼人最後の日については後述する。
さて、この「彦山」事件は右近に伝わったのであるが、『可観小説』を編纂する時に禁教令下で「切支丹」を削除しなければならなかったのだろう。
ちなみに「在津庄作」『新・肥後細川藩侍帳』に「財津正作」とあり、大友家の家臣であった日田衆の一族である。
キリシタンの記録はないが、身内と思われる細川家臣「財津市兵衛」はキリシタンであった。おそらく「庄作」もキリシタンだっただろう。
キリシタン家臣
『日帳』から、藩主忠利の三人の家臣に注目してみよう。
寛永元年(1628)八月一日に忠利は田川郡香春村に新銭鋳造場(現・須佐神社)を設置することを決定する。
忠利肝煎の鋳銭事業は藩の財政に大きく寄与することになる。
幕府に先立って鋳造された小倉藩の新銭は交阯(ベトナム)にも輸出され、流通されたほど上質であった。(『近世初期細川小倉藩の鋳銭事業』古賀康士著)
その新銭鋳申奉行に瀬崎猪右衛門が任命されるが、「罷りならず」と差替えを願い出ている。(八月十四日)
そして「新銭鋳申奉行に野田喜兵衛」となった。(八月十八日)
瀬崎猪右衛門と野田喜兵衛は共にキリシタンであった。喜兵衛は忠利逝去の折に殉死している。(「阿部茶事談」『綿考輯録』)
三人目は田川郡郡奉行(こおりぶぎょう)河喜多五郎右衛門正直である。同じくキリシタンである。
五郎右衛門の祖父は明智家家臣河北石見一成で、光秀の娘玉子の輿入れに従い細川家家臣となる。
また玉子が丹波の三戸野に蟄居した時から御供として仕えていた。(『綿考輯録』)
慶長五年(1600)七月十七日、石田三成軍勢に囲まれた大阪玉造の細川邸にて、玉子(ガラシャ)生害の折に殉死している。
その時、玉子を介錯した小笠原少斎秀清も殉死した。
三男小笠原玄也は敬虔なキリシタンであり、その妻マリアみやは元和五年(1619)に殉教した小倉キリシタンの柱石加賀山隼人の長女である。
最後まで信仰を棄てなかった玄也とみや家族は九人の子供らと寛永十二年(1635)十二月に熊本の花岡山で殉教することになる。
五郎右衛門の父は一成の次男であったが、明智家没落後に細川家に仕え、忠興の命により「河北」から「河喜多」と改め石見を名乗った。(『綿考輯録』)
元和元年(1615)、五郎右衛門は釘本半左衛門と共に田川郡の郡奉行となっていたが、(「豊前小倉藩御侍帳」『豊津町史』より) 十三年後の寛永五年(1628)九月二十一日の『日帳』に「田川郡河喜多五郎右衛門・釘本半左衛門より、松茸十五本」を忠利に上げていることが記されている。
当時、岩石(がんじゃく・現・添田町)は松茸の名産地であった。両氏は長いこと、田川郡に関わっていたのだ。
やがて五郎右衛門は肥後国転封後の寛永十一年(1634)に国惣奉行となる。
藩主忠利はキリシタン家臣の存在を認識していて、敢えて五郎右衛門を奉行の総責任者に任命したと考えられる。
田川郡では要所にキリシタン家臣を配することにより、鉱山キリシタンを幕府による厳しい穿鑿から護っていたのではなかろうか。
慶長十九年(1614)の忠興時代に多くの家臣が一旦は転宗又は棄教をしているが、忠利小倉城入城の元和七年(一六二一)にキリシタンに再び立ち返ったと考えられる。
それは、この三名の他に二十四名のキリシタン家臣が肥後国転封後の寛永十三年(1639)に転び証文(転宗の証)を提出しているからだ。(『肥後切支丹史』上巻 上妻博之編著 花岡興輝校訂)
香春岳城(鬼ヶ城)主だった忠興の末弟・孝之(休斎)の元和九年(1623)頃に出奔することになる原因は忠利のキリシタン擁護の姿勢にあったのかも知れない。
孝之は居館を構えた高座石寺は後の絵踏寺となるが、父泰勝院(藤孝・幽斎)の菩提の五輪塔が現存している。
衛門墓(えもんはか)
キリシタンの郡奉行と新銭鋳申奉行を配された田川郡の金山にはその痕跡を残すこととなる。
小説『青春の門』(五木寛之著)で有名な香春岳は現在、山頂が大きく削られて平らになっている一ノ岳、その北側に二ノ岳と三ノ岳と三つの山からなる。
特に三ノ岳付近は奈良時代から銅の採掘が行われ、奈良の大仏や宇佐神宮の神鏡もここの銅が使われたという。(『秋月街道』福岡県教育委員会)
この採銅所という地名はかなり古く、細川藩時代にはすでに使用されている。
採銅所の五反田東方と龍ヶ鼻西麓の二ヶ所に坑口(間歩)を残している初音金山(百舌鳥原金山)では、百舌鳥の形をした金塊が出たと伝承が残る。
また、五反田には女郎松といって樹齢がおよそ四百年と言われる松があり、その根元には女郎墓がある。近くには遊女屋跡地も残る。(『郷土史誌かわら第二集』)
田川郡香春町中津原浦松地区にある愛宕山照智院は愛宕大権現社境内にあり、かつての神仏習合の形を残している。
昭和五十年から始まった護摩焚きは、今では年間行事として毎年二月、地元の人々で賑わっている。
鳥居の石段手前に庚申橋という小さな橋があり、その側に庚申塔が建っている。
その塔を挟むように二基の石祠が祀られている。
今にも倒れそうな祠はかなり古いものと一目で判断でき、その苔むした観音開きの扉にはギリシャ十字が浮き彫りにされている。
地元の人たちは水神様としているが、これらの石祠に関する伝承がある。
「陵墓 衛門墓ト云フ 村ノ南方字鈴麦ニ碑二個アリ其形常躰ナラス 異容ニシテ最モ古風ヲ存ス 文字ナク又号
干支其氏墓寺古記里言共ニ傳ハラス」(『豊前村誌』)
(陵墓 衛門墓という。村の南方鈴麦に墓碑が二基あるが、その形は普通ではない。異様にして古いものである。文字もなく、又年号や名も菩提寺も不明である。)
まず、『豊前村誌』の成り立ちから時代背景を探ってみよう。
明治新政府は明治五年(1872)に旧福岡県(筑前十五郡)に『福岡県地理全誌』編纂の命令を下す。
明治五年から七年にかけて調査し、五年から十三年(1880)に編纂された。この全誌から「小倉県」の部を『豊前村誌』として刊行したのである。(『福岡県百科事典』下巻)
当時、田川郡は豊前国豊津藩(後の小倉県)に所属していた。(『角川日本地名大辞典』) ちなみに明治六年(1873)はキリスト教禁制が廃止された年である。
この頃の情報をもとに編纂されている。
「鈴麦」は初音金山より南へおよそ一キロメートル下る採銅所に位置する。
「衛門」は加賀山庄右衛門と考えられ、つまり隼人であり、六千石の大身であった。
鈴麦地区の古くからの住民に聞くと、小高い裏山には金の採掘場所と館跡があったと伝えられているという。
これらの石祠は加賀山隼人に言及していると見て間違いないだろう。
中津原浦松地区にある二基の石祠(台十字架は右)
ギリシャ十字架 台十字架
グレゴリオ.デ・セスペデス
隼人の死により、小倉藩領のキリシタンは一本の大きな柱をなくした。
しかし、隼人の遺志を継ぐ長女みやとその夫小笠原玄也がいた。
隼人の殉教の翌年一六二〇年の記録に「神父中浦ジュリアンは筑後と豊前に出かけた。彼は同地で数多の流人を見出した。
その中には、殉教者ディエゴ加賀山隼人の聟(むこ)とその家族がいた」(『日本切支丹宗門史』)とある。
天正遣欧少年使節だった中浦ジュリアンは小倉藩領内に潜伏し、キリシタン流民を見つけ、小笠原玄也とみやの家族と遭遇した。その様子も伝えている。
「この名門に生まれて愉しい日を送ってきた士(玄也)が、晴々として財産や故郷を捨てて現在の境遇を選び、今や極貧の人たちの間に交ざって、百姓の姿(蓑を着ていた)をし、その日その日糧を得んがために賤しい労働に従っているのは、感動すべき光景であった」(『日本切支丹宗門史』)
忠興に仕えていた玄也は殉教を覚悟したが、身内である細川家から「庇護」されることになり僅かな扶持を受けながら山中に入ったのだ。
これこそ、玄也が鉱夫になり働いている姿が浮かぶ。玄也家族はキリシタン流人と共に採銅所にいたと考える。
玄也やみやらが父隼人の墓を建てたことは容易に想像できる。
では、もう一基の墓は誰だろう。
観音扉に刻まれた十字架が微妙に違う。十字架に台があるのだ。それはイエズス会のシンボルである。
隼人と並んで祀られるイエズス会士はただ一人、グレゴリオ・デ・セスペデスをおいて他にはいない。
「カスティリア人でマドリード生まれのグレゴリオ・デ・セスペデス師である。彼は霊的指導司祭で、すでに六十歳になっていた。
イエズス会に入って四十二年、その三十四年間は日本で過ごした。霊魂の救済にこの上ない情熱を絶えず注ぎ、努力を惜しまず大いに努力していた。
この情熱は、特に豊前の国の教会で示されている。豊前は、彼が最初に種をまき、長い年月をかけて水をやり、我らの主は、日々、新たに成長をもたり給うた」(『一六一一年度イエズス会日本年報』)
セスペデスは大阪教会時代に忠興の室玉子(細川ガラシャ)を洗礼に導いた神父である。ガラシャの生涯に唯一出会ったキリスト教の師であった。
忠興より招聘され小倉で一六一一年に倒れるまで中津や小倉にてガラシャの追悼ミサを挙げ、藩内キリシタンへ信仰人生を捧げた。
それだけに彼の死にキリシタン達は深い悲しみに包まれた。
「深い悲しみに打たれ、誰も皆、その情愛溢れる師父の死に涙を流して悼んだ。師父が亡くなられた土地の領主(忠興)はそこに埋葬することを許さなかったので、長崎へ運ぶために遺骸を棺に収めようとしている間にもキリシタンの群れは次第に増えていき、昼夜問わず、能うる限りの悲しみの情を見せ、死者の足に抱きしめたり口づけしたりして、とめどもなく涙を流していた。
この悲しみの情は、葬儀の行われた時にいっそう高まった。棺が閉ざされた時の皆の嘆きは、実の父親が死んだ時に勝るとも劣らぬものであった。彼らに対する師父の大いなる愛、あの慈愛に満ちた顔、情愛深い優しい物腰、どのような困難
でも、あらゆる企てに飽くことなく挑戦するあの心意気、魂の偉大な情熱を思い起こせば、誰もが師父を称賛するであろう」(『一六一一年度イエズス会日本年報』)
小倉の民を心から愛していた神父の姿が偲ばれる。
翌年に幕府の禁教令が発令され、忠興は従ったために領内でのセスペデスの遺体の埋葬を許さなかった。長崎に運んだとされる。
しかし、次の加賀山隼人の殉教を伝える記録には「聖遺物」が残されている。
「ディエゴ(隼人)は彼らに(迎えに来た者ら)感謝し、夫人と娘を呼び寄せて、聖なる最後の教訓を与えた。
次いで、彼は十字架の下に平伏し、世の救主、及び聖母に自ら薦めた。
彼は、彼の精神的師であるグレゴリオ・デ・セスペデス神父の尊き贈物である洋服と美麗な修道服(マント)を着け、小舟に乗って刑場に行った。
同国の城下町から一里下った。ディエゴは、到着するや修道服を脱ぎ、同行の一キリシタンに之を与えた。
次いで、彼は履物を脱ぎ、裸足で丘に登りたいといった。遂に、彼は首切り役人の手に渡り、致命の一撃を受け、(一六一九年)十月十五日、五十四歳で落命した」(『日本切支丹宗門史』)
小倉藩キリシタンの柱石であった隼人の最後である。
「彼は他のキリシタンたちの父のようで、またイエズス会の大切な保護者であった」(同掲)
隼人はセスペデスの洋服と修道服を贈られていたのだ。
遺骸の一部も隼人の手に渡っていたことが考えられる。
これらの「証拠品」から、墓碑が採銅所に建てられたのは隼人殉教の年である元和五年(1619)以降であり、同時にセスペデスの墓碑を建てたと考えられる。
小笠原玄也家族は先述の通り翌年には中浦ジュリアンと会っているからだ。
つまり、イエズス会士中浦が墓の建立に関与し、両氏の追悼ミサを捧げたのではなかろうか。
隼人殉教の同日に豊後国日出藩にてもう一つの殉教があった。
藩主木下延俊も義兄の忠興に従い、隼人の従兄弟であるキリシタン加賀山半左衛門に斬首を言い渡した。
殉教を望んだ半左衛門に四歳なる息子がいた。
「息子ジャコモは、父の膝に絡まって、イエス・キリストのために一緒に死にたいとせがんだ。」そして、「幼い子供は、(父の)聖なる遺骸の前に跪き、幸福な父の後を追って死んだ。」(『日本切支丹宗門史』)
現在、二人の殉教を偲んで日出殉教公園(旧日出藩成敗所跡)がその悲劇を今に伝えている。
半左衛門とジャコモの遺骸は妻が引き取ったと考えられる。しかし、その「聖遺物」の一部が隼人の家族に渡ったとしたら、隼人の墓に収まるだろう。
それはセスペデスは藩内のキリシタン達の心の拠り所であるからだ。加賀山家のそれとは別なのである。
玄也やみやが金山でコンフラリア(信徒組織)を率先して、多くのキリシタンを導いていたと考える。
いつの唄なのか。金山の唄が残る。(『郷土史誌かわら第六集』)
ここは九州北端の 小倉の南五里行けば
伝いも古き採銅所 村の西部の連山に
黄金、赤金堀りいだす 大幸鉱山ここにあり
金掘る男子ゆる乙女 村の栄は国の富
務やはげめや汗ふいて
採銅所鈴麦にあった石祠が何故に中津原に移動したのか。
実は中津原も彦山入峰経路であり、当時の愛宕大権社の敷地はかなり広く、石祠は境内の片隅にひっそりと置かれたのではなかろうか。
移動された時期は不明だが、おそらく明治四年(1871)の修験宗禁止令の発令直後だろう。
「山伏」やキリシタンらに祈りを捧げられていた「衛門墓」は、彦山修験道の歴史と共に終わりを迎え、中津原に運ばれたのではなかろうか。
弁城金山町(べんじょうかなやままち)
呼野金山から金辺峠を越えて龍ヶ鼻、初音金山、採銅所、薄霧山(牛斬山)を越えて弁城、伊方、上野(あがの)と金山キリシタンは流れていった。
伊方は伊方・弁城地区である。2006年の金田町、赤池町と合併し福智町となったかつての方城町(1889年、伊方村と弁城村が合併)である。
地元『方城町史』から「柿波治朗兵衛墓」の項を引用する。
「弁城宝珠山町の墓地に、柿波治朗兵衛の墓がある。この柿波氏は毛利長門守の家臣であるが、元和年間(1615~
23)当町に来住して鉱山業を始め「盛大にして四集の民忽ち市街を成す、之を金山町と云う」と記録されており、
元禄年間まで約七十年間継続された。
現に宝珠の堀江紋三氏の屋敷前の畑一帯から製錬の址が発見されている。
墓は一・七〇米花崗岩切石二段台のものにして表面に「元禄六癸酉五月・・」とある。」(元禄六年は西暦一六九三年)
非常に興味深い記述である。
「柿波氏」は長門守毛利秀就(ひでなり)の家臣「柿並氏」である。
柿並家は大内義弘の次男持盛(もちもり)を祖とする名家であった。(『十八世紀萩藩における文書管理・記録作成と藩士柿並市右衛門』山崎一郎)
持盛の孫弘慶(ひろよし)が長門国阿武郡川上村の柿並谷に拠点を構えた時に、姓を「大内」から「柿並」に改めた。
その後、大内家没落後に毛利輝元や秀就に仕えた。(『萩藩諸家系譜』岡部忠夫)
弁城に入った「治郎兵衛」は弘慶の曾孫幸慶(ゆきよし)の時代だ。出自は不明だが、一族と考えて間違いないだろう。
享保五年(1720)から編纂された『閥閲録』の「足軽 阿曽沼六左衛門組」に「柿並次郎兵衛」の名がある。これは古文書や家系図を編纂しているから、時代考証しなければならないが、同一人物だろうか。(『萩藩閥閲録』)
最も重要なことは「治郎兵衛」は何故に弁城村に入ったのだろうか。
寛永元年(1624)の細川家『日帳』に「はふや忠兵衛、中国へあかかねかいに参るべし」(九月二十日)とあり、精錬技術を持った灰吹屋忠兵衛が中国地方に赤銅を仕入れに向かっている。
またこの時に藩主忠利から「御奉行を一人」と共に行くようにしたが、「小倉からの横目・奉行など」と言えば相手(売手)
がどうかと思うから、言う必要がないと命を受けている。
「相手」は気になるが、忠兵衛は「赤銅」という重要なミッションを帯びていた。
忠兵衛は領内の金山の見立ても行っており、かなりの専門家である。日本初の灰吹技術が開発された石見銀山(島根県)出身かも知れない。
実は、忠利死後の慶安元年(1648)にキリシタン嫌疑で穿鑿を受け、その後、閉門赦免となっているが、(『熊本藩年表稿』細川藩政史研究会) おそらくキリシタンだったのであろう。
毛利藩の領地である長門や周防に、小倉教会の司祭が多くのキリシタンを訪ね、信徒組織である「聖マリア会」(さんたまりやの御組)も設立している。
その司祭はセスペデスの補佐を行なっていた天正遣欧少年使節の伊東マンショである。(『一六一一年度日本年報』)
セスペデスの死後、伊東マンショとカミロ・コンスタンツォが忠興により追放される直前に小倉藩領のキリシタンから補助者を選び、組織を再構築している。
「以前ある時期にすでに信徒らを幾つかの組に分け、司祭によって選ばれた、より経験を積んだキリシタンに、それぞれの組を指導させたことがあった。
今再びこの組を形成し、新たに教育してをして、他の物の世話をする者を育てていた。
どのように信徒の信仰を守り、必要な時にどのように洗礼を授け、死者を救うためにどのような葬儀やその他のことを行うのかなどと。
かくてすべての者に、年長の信仰に精通した相応しい伴侶が与えられた」(『一六一一年度日本年報』)
また、小倉藩領内では禁教令後の元和三年(1617)にイエズス会は小倉や中津に四十八名の司祭の補助者を選んでいる。細川家家臣や地元有力者が目立つ。(「イエズス会士コーロス徴収文書」『近世初期日本関係南蛮史料の研究』松田毅一)
忠兵衛が向かった中国地方はその頃に活況を呈していた蔵目喜銅山(阿武郡阿東町)だった可能性がある。
この地にもキリシタンが潜伏していたことだろう。
また、銅だけでなく、鉄にも注目しなければならない。やはり阿武郡に白須たたらがあり浜砂鉄で製鉄していた。
小倉藩も呼野金山で鉄の試吹きを行っている。(寛永五年二月)
阿武郡に隣接する紫福(しぶき)の大板山たたら製鉄遺跡(世界遺産構成資産)も江戸中期から発展している。
紫福地区には「隠れ切支丹遺物」があり、「仏光寺」や「長久寺」にキリシタンの墓と思われる石祠や伴天連の墓(六角形の墓石)、マリア観音やクルスの紋が伝えられている。(萩市観光協会公式サイト)
禁教令後に多くのキリシタンが山中に逃げてきたという。
また、「萩市切支丹殉教者記念公園」(萩市堀内)には、キリシタン熊谷元直と天■元信の殉教碑や配流された長崎浦上村のキリシタンの墓が並んでいる。
豊前小倉藩と阿武郡との接点は歴史的事件により繋がることになる。
慶長十七年(一六一二)の「舟島の戦い」、世に言う「巌流島の戦い」である。
宮本武蔵に負けた佐々木岩流(小次郎)の墓が阿武郡福賀に現存するという。
阿武町役場のホームページから一部を抜粋する。
「阿武町大字福田下、小字を小沢津といい、その山あいを寺ヶ浴と称する。慶長年間又はそれ以前から真言宗正法
寺という古寺があった。
巌流島の決闘で敗れた佐々木小次郎の妻ユキはキリシタンであった。当時懐妊中のユキは小次郎の遺髪を抱き、折
柄厳しいキリスト教の禁令により多くの信者とともに山陰の地に安全な居所を求めた。
ユキは、この地の正法寺に身を寄せ剃髪して尼となり、夫小次郎の冥福を祈り菩提を弔うために墓を建て、庵で一
生を終えた。」
墓石の裏面には「佐々木古志らう」とある。「古」と「志」を当てたのは、クルス(十字架)を含んでいるからだ。また小次郎の墓の側には六面石の墓があり、ユキは伴天連墓(司祭の墓)と信じていたという。
佐々木小次郎の出自は諸説あるが田川郡副田庄(添田町)との説もある。(『彦山・岩石城と佐々木小次郎』(下)梶谷敏明)
さて、慶長十七年は徳川幕府より直轄地や大名家にキリスト教禁教令が発令された年であり、藩主忠興が保護から一転して迫害を始めた年にあたる。
当時、藩の剣術師範であった小次郎は武蔵との決闘に挑むことになるのだが、藩家老の沼田延元の家臣による『沼田家記』(1627年)によると、武蔵は小次郎に勝ったものの絶命に至らず、武蔵の弟子らにより撲殺されたという。
その後、武蔵は延元の保護により、日出藩へ送られたとある。
ここから見えてくるのは「小次郎暗殺」である。
小次郎もユキと同じくキリシタンだった可能性はある。
忠興のキリシタン排除の一環としてキリシタン小次郎をどうしても殺さなければならなかったのかも知れない。
小次郎の年が不明だが、武蔵よりもかなり年がいっていて七十歳に近かったといわれる。そうであれば妻ユキの懐妊は創作の域を超えない。(可能性はあるが)
佐々木小次郎の墓(阿武町のホームページより)
中国地方でのキリスト教の最初の種まきはフランシスコ・ザビエルから始まった。
天文二十年(1551)、ザビエルは山口にて大内義隆に謁し、布教の許可を得て、およそ二ヶ月の滞在で五百人に洗礼を施した。
後事を託されたコスメ・デ・トーレスは弘治元年(1555)に教会堂を落成した。大道寺である。
琵琶法師ロレンソ良斎と共に尽力したために、信徒の数は二千人に上った。(『イエズス会日本年報』上 村上直次郎訳)
先述したように、小倉教会の伊東マンショは「長門、周防の両国に多数のキリシタンを訪問し、更に毛利の城下山口の諸天主堂や日向の一部にも出かけた。」(『日本切支丹宗門史』)とあり、中国地方にかなりのキリシタンがいた。
毛利輝元の時代だが、禁教令下にはキリシタンへの弾圧があったが、叔父の毛利秀包(ひでかね・久留米藩藩主)の妻マセンシア(大友宗麟の末女)が長門・周防に宣教師を招いたことやキリシタンの豊後国岡城主志賀親次を領内で匿ったことなどある程度の理解はあったのだろう。(親次の墓碑が山口県宇部市小野地区に現存)
しかし、嫡子秀就は迫害に拍車をかけた。
「彼は城下町の萩で五人のキリシタンを火炙りにし、二人の家臣は夫々自宅で斬首された。」(『日本切支丹宗門史』一六一八年の条)
やがて身の危険を感じた二十歳そこそこの柿波治朗兵衛が弁城・伊方の鉱山地区へ入ったキリシタン「山師」ではあるまいか。
ひょっとして元和元年(一六二四)に忠兵衛が「赤銅」として連れ帰ったのかも知れない。
ちょうど、この年は呼野や採銅所での採鉱量が減少していた。新たに開発するために高度技術を有する「山師」を必要としていたのだろう。
現在、この地に久留守池(クルス池)という名の池がある。
池辺で見つかった壺の中に木製宝珠、木製十字と手鏡(大吉銘柄)があった。(久留守出土キリシタン聖物 福智町教育委員会)
手鏡は幼児洗礼する時に太陽光を額に当てるために用いたという。(平戸市切支丹資料館)
久留米守池
上野(あがの)
慶長七年(1602)、忠興は朝鮮陶工尊楷(上野嘉蔵高国)を迎え、上野村堀田小字釜ノ口に藩窯を開き、上野焼の基礎となった。(『陶磁器の道』李義則)
釜ノ口の東には弁城岩屋の谷に岩屋高麗窯がある。何故、この地を作陶の拠点にしたのか。
まず、「釜ノ口」周辺の小字名に「釜蓋」、「鋳物師原」(『日本陶磁大系』第十五巻 高鶴元)とあり「鉄」に関する名称があることから、鋳物師や金山関係の集団がいたと考えられる。
かつての村名「赤池」も鉄から由来していると地元では伝えられている。上野焼の伝統的釉薬「鉄釉」も有名である。
釜ノ口窯開窯から二十年後の元和八年(1622)に忠利は『田川郡家人畜御改帳』を作成させている。
弁城村は五六五人、上野村は六一一人とかなりの人数である。
ちなみに弁城村と上野村には鋳物師が各二名、弁城村焼物山に焼物師五人、上野村焼物山に八人いて、多くの家族や使用人(共に六十数名)もいることから作陶が盛んであったことがわかる。
しかし、農業以外に考えられるのは、堀子である。金、銀、銅、鉄の鉱石や砂を採取するのである。
そうであれば、先述の山師「柿波治兵衛」の「金山町」の話と一致する。
また、弁城から上野は福智山への彦山峰入り経路であり、山伏は薬草のみならず鉱石の知識があったと考えられる。
田川郡の金山はほとんど彦山入峰経路と一致しているからだ。
細川家は「身内」の座主の関係から山伏らから情報を得ていたに違いない。
釜の口窯から江戸初期の作品と思われる陶片が発見された。
ここでは二片紹介しよう。
一つは三本の角を持ち、顎髭が生えている顔である。それはまるで悪魔バフォメットのようである。
もう一つは顔の半分を覆った髭のようで穏やかな顔である。
この二つを比べると悪魔と神のようだ。
形から小さめの聖水盤と見ることもできる。
しかし、デザインからいってキリスト教の知識がなければならない。また藩窯であるから、一般からの注文とも考えられない。
考えられるのは初代小倉教会長グレゴリオ・デ・セスペデスである。
注文主は忠興である。
釜ノ口窯から出土した陶片(左は三本の角を持つ顔、右は顎髭の顔)
■八代郡
1、野津手永(手永会所・野津村)
・上鏡村(西厳寺、久保河原、松本)・下有佐村(榎町、桑本、大門)・鏡村(樋口、福嶋)・鏡町 ・内田村(田中)
・内田村(田中)・鹿嶋村(南、土亀、今古閑)・東鹿嶋村(梶原、小路、小無田、三ツ枝)・新地村 ・川原村 ・宮原村
・野津村(法道寺、横小路、田中、新田、高野道、馬場、射場)・宮原村(井出口、水柿、薮田、豊内)・小路村(高下)
・中野村(原田)・上有佐村(大平、田中、水柿、本名)・下村(牛水、田中、中野)・西河田村(平嶋村、八反田、岩崎)
・上土村(古閑、淵前)・外無田村(中野、田中、中原、大手、江口)
2、種山手永(手永会所・興善寺村)
・興善寺村 ・岡谷川村 ・岡中村 ・岡小路村 ・拵村 ・今村 ・北村 ・早尾村 ・河上村 ・平嶋村 ・南大野村
・新田村(陳開新地村)・吉本町 吉本村 ・西吉元村 ・大野村 ・上北大野村 ・立神村 ・北種山村 ・南種山村
・小浦村 ・川俣村 ・栗木村 ・柿迫村 ・下嶽村
3、高田手永(手永会所・豊原村)
・豊原村 ・奈良木村 ・本野村 ・高下村 ・西高下村 ・大福寺村 ・植柳村 ・敷河内村 ・麦島村 ・横手村
・萩原村 ・松江村 ・田中村 ・古閑村 ・上野村 ・大村 ・海士江村 ・新牟田村 ・南吉王丸村 ・吉王丸村
・東河内村 ・北片野川村 ・上片野村 ・中片野村 ・下同村 ・長田村 ・井上村 ・下井上村 ・日置村 ・上日置村
・福正原村 ・宮地村 ・古麓村 ・猫谷村 ・下松求麻村 ・上松求麻村
帯刀様御開村
・高小原村 ・松崎村 ・本町 ・下河原村 ・麦島村 ・徳淵村 ・塩屋村
右本町ゟ塩屋迄五ヶ村八代町也