津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■『家康のワイン』

2020-07-20 18:05:27 | 論考

 過日、ご厚誼をいただいている、小倉在住で「 小倉藩葡萄酒研究会」の小川研次氏から、以下のような大変興味深い一文をお送りいただいた。
氏は九州でお一人の名誉ソムリエだとお聞きしている。その故をもって「小倉藩葡萄酒研究会」を立ち上げられておられる。
忠利が作らせた葡萄酒のことなどを研究されての論考をたまわったのが、お付き合いの始まりである。
過去にその他いろいろな論考をお送りいただき、お許しをいただいて当方ブログでご紹介してきた。

今回も又お許しをいただいて皆様にご紹介申し上げる。
「家康のワイン」は、秀吉へ又信長へと遡るのかもしれない。

     
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         『家康のワイン』                                        小倉藩葡萄酒研究会・小川研次

 明の李時珍著『本草綱目』(一五七八年)は慶長十二年(一六〇七)に長崎にいた林羅山の手に渡り、徳川家康に献上された。
さて、そこに葡萄酒の造り方があるのだが、「二様あり、醸したものは味が良く、焼酎にしたものは大毒がある」という。
醸造は麹と共に醸すのであるが、汁(ジュース)が無い場合は干しぶどうの粉を用いるとあり、葡萄粉末ジュースの様相である。
(子供の頃、舌を紫色にして舐めていたようなもの)

「葡桃は、皮の薄いものは味が美く、皮の厚いものは味が苦い。」
「葡萄を久しく貯えて置くとやはり自然に酒が出来て、芳香と甘味の酷烈である。それが真の葡萄酒だともいふ。」

完全無欠の「ワイン」である。シルクロードから、また自生した多種の葡萄がある中国ならでは可能だったのである。
しかし、日本ではどうだろう。そもそも、江戸初期に日本人が葡萄酒を造るという発想があったのだろうか。 
一五四九年八月十五日、キリスト教宣教師として初来日したフランシスコ・ザビエルは日本人の「酒」に関して報告している。
「この国の人たちの食事は少量ですが、飲酒の節度はいくぶん緩やかです。この地方にはぶどう畑が有りませんので、米から取る酒を飲んでいます。」
(『聖フランシスコ・ザビエル神父全書簡2』)

 また、徳川家康の通辞を務めたジョアン・ロドリゲスは一六二〇〜二二年に『日本教会史』を編集している。
「果物の多くは、ヨーロッパにある我々の果物と同じである。様々の種類の梨や小さな林檎、上の地方(かみ=五畿内、九州は下)における桃や杏がそれである。李と葡萄は少ない。それは葡萄の栽培に力を注いでないからであって、あるのは葡萄酒に向かないものである。叢林には野生の葡萄の一種があるが、日本人はそれを食べていなかった。もし、それから葡萄酒を造るならば、味にしても発酵の具合にしても、やはり真の野生の葡萄である。また、ローマにおいてこの地に関して認められた情報によれば、ヨーロッパから来る葡萄酒の不足から(これはすでに起こったことだが) 野生のものから造った葡萄酒でミサをあげてよいとの判断が下されたのである。」(「日本教会史」上、『大航海時代叢書』第一期、岩波書店)日本人は葡萄酒どころか、食してもいなかったのだ。その「野生の葡萄」から染料や籠などを作っていたのだ。

一五九二年のイエズス会総会においてヴァリニャーノがポルトガル産の葡萄酒の不足からミサに支障をきたすので、日本の野生品種である山葡萄(葡萄蔓)で造った葡萄酒の使用の可否をローマに求めたのである。この回答は一五九八年にローマから届いている。保存性を高めるためにポルトガル産の葡萄酒を混ぜることも許可された。(「日本の倫理上の諸問題について」『中世思想原典集成』二十)

宣教師らは、在来種の山葡萄による発酵も試みたが、アルコールの低さや雑菌による汚染などにより、味はおろか保存さえもできなかった。やがて、ポルトガルの葡萄酒を混入することにより、保存性を高めること知る。しかし、これはあくまでミサ用葡萄酒だったのである。

では、家康(一六一六年没)は葡萄酒を造ったのだろうか。
『駿府御分物御道具帳』に家康の遺品の中に「葡萄酒二壺」とある。(『大日本資料』第十二編之二十四)
慶長十年(一六〇五)に家康がフィリピン諸島長官(スペイン領)に送った書簡の中に「予は閣下の書簡二通併びに覚書の通り贈物を領収せり。中に葡萄にて作りたる酒あり、之れを受取りて大いに喜べり。」(『異国往復書簡集、改訂復刻版』雄松堂書店)
家康はスペイン王国からの葡萄酒を大いに気に入ったのであった。
さらに慶長十八年(一六一三)にイギリス国王使節のジョン・セーリスから五壺の葡萄酒を贈られたが、セーリスは日記に「甘き葡萄酒」と記している。(『異国往復書簡集』「増訂異国日記抄」雄松堂書店)
このことから、家康は甘口が好みであったことが理解できる。
当時のイギリスはスペインから輸入しており、ともにヘレスのワインと考えられる。実は、その根拠に日本人も関係している。

フェリペ二世(一五二七〜九八年)のお抱え料理人フランシスコ・マルティネス・モンチのレシピ本として発刊された『Gastronomi ia Alicantina Conduchos de Navidad』(一九五九年出版)である。
一五八四年十二月末、マドリードでフェリペ二世との謁見を終えた天正遣欧少年使節の一行は、バレンシア州最南端の地アリカンテにいた。
「フォンディリョン:アリカンテのブドウ園から造られる年代ものの甘いワインは至福の喜びを与えてくれる」そして今、王子(使節)が試飲した時に「これが様々な国でとても有名なアリカンテのワインですね!」と言った。
「王子」は単数形で書かれているが、使節リーダーの伊東マンショと思われる。ちなみにマンショはマカオにて司祭叙階後に小倉で勤務している。
さらにモンチーノは貴重な情報を伝えている。
「フォンディリョンの起源はヘレスの有名なワインペドロ・ヒメネスと同じであり、カルロス一世(一五〇〇~一五八八)の兵士が造ったことに始まる。」
つまり、この時代にアリカンテとヘレスのワインが長い航海に耐えうる高品質であったことを意味する。

現在のフォンディリョンは黒ブドウ「モナストレル=ムールヴェドル(仏)マタロ(豪)」を遅摘し、糖分を凝縮させるために天日干しをした後に発酵させるのだが、ソレラ・システムの大樽で八年以上熟成させる。酒精強化せずに酸化熟成させたアリカンテの伝統的なビノ・ランシオである。

「ペドロ・ヒメネスと同じ」とは、その独特な製法で、現在でもヘレスでは、白ブドウ「ペドロ・ヒメネス」を天日干している。超甘口シェリーは有名だ。

現在、シェリーにも導入されているソレラ・システムの出現は十九世紀半ばとされる。(『シェリー、ポート、マデイラの本』明比淑子著)
また、マラガワインも現在では酒精強化ワインだが、天日干ししたペドロ・ヒメネスやモスカテル(マスカット)を使用している。
家康の遺品葡萄酒はこのペドロ・ヒメネスの可能性がある。三年間で三壺を消費して二壺を遺していたのではなかろうか。
幕府薬園で葡萄酒を造ろうとしたのかも知れないが、全く記録がない。
徳川家で国産葡萄酒の初見は正保元年(一六四四)まで待たなければならない。
『事跡録』に「殿様御道中ニテ酒井讃岐守殿ヨリ日本制之葡萄酒被指上之」とあり、大老の酒井忠勝が尾張藩主徳川義直に参勤交代で名古屋に帰る途中に日本製葡萄酒を献上したのである。(『権力者と江戸のくすり』岩下哲典)
将軍家光からなのか、忠勝なのか不明であるが、あえて国産としたのは日本のどこかで造られていたことになる。
ただし、これがワイン(醸造酒)である確証はない。
もし、家康が葡萄酒を造るとなると『本草綱目』の「薬効」を意識していただろう。しかし、日本の在来種は先述の通り弱いものであった。「薬効」どころか酸敗、腐敗した葡萄酒は身体に悪い。そこで必然的に日本人は酒や焼酎を加えることにした。つまり、「ワイン」ではなく「混成酒」なのである。
「日本制之葡萄酒」は「混成酒」の可能性がある。

天正八年(一五八〇)の『今古調味集』に葡萄酒の造り方が記されている。
「葡萄酒はくわ酒の通りにて宜し 又ぶだうエビツルにて作りたるをチンタ酒と言うなり」
「桑の実(葡萄)を潰して布で漉し一升五合の汁を一升になるまで煮詰める。冷ましたのちに瓶に入れ、そこに古酒一升と焼酎五合と氷砂糖二百五十匁を入れ三十日経てばよろしい。壺にてもいずれにせよ七分位に入れ置くこと。」

これは天正時代とあるが江戸期と思われる。材料はぶどうの他に日本酒、焼酎そして氷砂糖である。
当時、砂糖はたいへん貴重品であり、また薬であった。
さらに江戸時代に入ると葡萄酒のレシピが現れてくるが、ほぼ同じ造り方である。
『料理塩梅集』寛文八年(一六六八)
「山ぶどう酒は上白餅米一升を蒸して中に白こうじ一斗を熱いうちによく混ぜる。そしてよく冷ます。山ぶどう八升(茎は入れない)を壺に入れるが、先の米とぶどうを交互に重ねる。詰め込んだところに上々の焼酎八升を流し込む。そこに細い竹を刺し通すれば焼酎が壺の中でよく浸透する。五十日程の内に三度程よくかき混ぜること。

もう一つの方法
山ぶどう一升をよく熱する。糀一升、餅米一升を酒めしにして冷ます。これらを桶に、酒めしを一重に置き、又山ぶどうを置き、糀をかけて、交互に重ねる。そこに上々の焼酎一升五合を口まで入れ、二十日ほど過ぎたら酒袋に入れる。そして、空気に触れないように桶に詰める。
甘く仕上げたいならば、氷砂糖を粉にして加えること。
桑酒に仕上げるには山ぶどうを桑の実一升に取り替える。又、他のぶどう酒に仕上げるには、本ぶどう一升に取り替える。」

『本朝食鑑』元禄十年(一六九七)
「蒲萄酒、腰腎を緩め、肺胃を潤す。造法は熟した紫色のぶどうの皮を取り搾った後に、搾り汁と皮とを漉し、磁器に入れ一晩置く。これを再び漉し、この汁一升を二回煮詰める。冷ました後に三年ものの諸白(清酒)一升と氷砂糖百銭を加えてかき混ぜる。陶甕に入れ十五日程で出来上がるが、一年以上置くとさらに良い。年代ものは濃い紫で蜜の味がし、阿蘭陀(オランダ)の知牟多(チムタ=チンタ)に似ている。世間では、これを称賛してるが、この酒を造る葡萄の種類は、エビヅルが勝る。つまり山葡萄である。俗に黒葡萄も造酒に良い。」

『手造酒法』 文化十年(一八一六)
葡萄酒
焼酎二升 、白砂糖三升 、ぶどうの汁三升 、生酒  、

山ぶどう酒
ぶどう八升、上白糯米八升、上焼酎一斗、糀八升

本葡萄や黒葡萄が現在で言うヤマブドウであり、山葡萄はエビヅルのようである。
葡萄酒は本葡萄により、また山ぶどう酒はエビヅルにより造られていたと思われる。エビヅルの葡萄酒は、その色からチンタ酒とも呼ばれていたことも判明した。それは江戸末期に味醂酒を南蛮酒と呼んでいたことと同じである。
このように江戸期末期までは葡萄酒は「混成酒」として造られていた。
本格的なワインの登場は明治初期まで待たなければならなかった。
山梨県甲府で山田宥教と詫間憲久によるワイン製造である。

さて、余談だが寛永五年(一六二八)、小倉藩藩主細川忠利の命によって造られた葡萄酒はどのようなものだっただろうか。「薬酒」となると上述のように「混成酒」となる。
肥後国転封(一六三二年)前の四年間の葡萄酒製造の記録しかないが、「薬酒」となれば、熊本でも製造したすることが出来たはずである。しかし、現時点では史料は見出せない。
当時、忠利は多くのキリシタン家臣を抱えており、天正遣欧少年使節の中浦ジュリアン神父も潜伏させていた。(拙著『小倉藩葡萄酒事情』『秀林院の謎』)
私見だが、「小倉藩葡萄酒」は母ガラシャへの魂救済のためのミサに使用されていたと信じる。
それは熟した在来種のエビヅルで造られたのだが、一旦天日干しされ、足による圧搾が行われた。発酵後に長崎で調達したアルコール度数の高いスペイン・ポルトガル産の甘口ワインを混入し壺にて保存していたと推考する。
つまり、ヴァリニャーノらの造り方を踏襲していたのだ。
この葡萄酒は禁教令前の忠興時代から造られていたと思われ、小倉教会長グレゴリオ・デ・セスペデスと伊東マンショが活躍していた時代である。
あのアリカンテのフォンディリョンを知った伊東が、葡萄酒の造り方を教えたことは想像に難くない。

「キリスト」の御血は「ワイン」でなければならなかったのである。

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■細川小倉藩(295)寛永五年・日帳(五月十ニ~十五日)

2020-07-20 13:10:33 | 細川小倉藩

                      (寛永五年五月)十二~十五日 

         |              
         |    十二日         
         |
         |  (後の阿部弥一右衛門)
郡中ヘノ貸金旱損 |一、山村弥一右衛門登城仕申候ハ、御郡ニ被成御酌候金子、日やけの在所ニ無甲乙割符可仕旨、被
之在所へ恒平ニ割 |  仰付候ニ仍而、日ニやけ不申在所ニかし申候ハ、銀子をかけわけ、かし申たるニ而無御座候、御
付く 旱ニ損ゼザ |  郡米をおい候て居申分を、彼成御貸候金子を以、上納仕候、其御郡米おい申候分を、加利足取立
ル在所ヘノ貸付  |  申候、其利分を日ニやけ申在所へかし、不足御座候ものニ、利を遣申候由、弥一右衛門申候事、
郡米之負債ノ加利 |
足ヲ旱損ノ在所へ |
遣ス       |   (有清)
彦山ヨリ五月ノ祈 |一、彦山座主ゟ、当月御祈祷ノ御札、以使僧被差上候事
祷札上ル     |
村田彦市預リノ鶴 |一、村田彦市被申候ハ、ぬし預りノ鶴をため池にてつかい申候處ニ、からすにすりたてられ候て、見
烏ニスリタテラレ |  うしない申候、小倉のわの内ニ居申候間、たつねさせくれ候へと被申候、御鷹師衆隙御座候へ
逸ル 探索ヲ乞ウ |  ハ、おあやうニハ不申候へ共、今程ハ御鷹師衆毎日高つかいニ罷出候ニ付、何共たつねかね申候
         |  間、如此ノ由被申候間、御側の御弓・御鉄炮之内六人被申付、たつねさせ候へと申遣候事、

         |              
         |    十三日         
         |
藍島之野牛三官ニ |一、一昨日、あいの嶋ゟ被成御取寄候野牛、今朝三官處へ被遣、御ころさせ被成候事、
殺サシム     |
白西堂      |一、白西堂、京爰元へ下着被申成候事
         |             〃
早松茸ヲ採ラシム |一、うさ郡さだ山ゟさ松茸可取上旨 御意ニ付、御小人ノ半右衛門ニ書状持せ遣候事、
         |     (浄勝院、吉田兼治室、三斎妹)(光賢)   (同室)      (辛螺)(栄螺)
三斎等へ辛螺栄螺 |一、三斎様・しやうせう院殿・烏丸様・御万様へ、今日にし・さゝい・松茸一籠つゝ、被進候事、
早松茸ヲ贈ル   |
さゞいぜ     |一、今日ハさゞいぜニ被成御座候事、

         |              
         |   (十四日 記事なし)         
         |

         |              
         |    十五日         
         |
演能       |一、今日御能御座候事、
         |  (研)   (弟子)
研師弟子ノ刃傷  |一、とぎ喜介でし太郎作と申もの、喜介女房をきり候て、主ハにかいニ而腹を切申候、女房の面を少
         |  切候由、死不申由ニ候事、
小脇差ノ身ノミノ |一、御能見物之もの、小わきさし之身斗、けやき御門ニ今朝落置候ニ付、御門番衆吉田少右衛門へ此
落物       |  由申候ヘハ、町中をふれ候て、落申もの候ハヽ、改可差上被申通ニ而、御門番持参申候事、

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■文久三年「恕斎日録」(17)

2020-07-20 06:07:11 | 恕斎日録

117 
  五月朔日 当番ニ付嘉一郎代参
  二日  田口角助江参り 両家江出京被仰付御辞令等拝
      見 上妻宅江立寄候處 藤本幷入江・村上へ出合 藤
      本酔躰 入江列と議論之事
  三日  
  四日  今日 召出被仕候事
      作方之爭事言上 麦七分菜六分中通之作と申上候
      事 頃日者亀之助を以見事之スツホンを遣し 好
118
      物ニテかこひ置 度々たべたぞ被遊 御意候ニ
      付 小子より 此節南関御通行被遊候ハヽ 彼方ニ
      而差上可申相心得候處 堂崎路 御通行被遊
      候ニ付 差上出来かね候間 此節指上候断申上候
      事 乍恐京都之御都合も御宜敷御速ニ被遊 御
      帰国 奉恐悦候 乍恐 嘸々 御配慮被遊候たると
      奉存候断申上候處 大分心配いたしたとの 御
      意被遊候事
     一副役御奉行道家角左衛門方より聞左之通
      昨日 大坂より早打之雇□着いたし候處 将軍
119
      様江者大坂御城御見繕被成候との 勅諚ニ
      付近ニ彼方へ 御成之筈 且又一橋様江茂 御
      勅命ニ而御下り之由也
       右者 内輪之御模様ハ 至而煩敷尾模様ニ而 今
       度石清水 御幸之節 浮浪共ゟ奉し御□を御
       引セ被遊候而 攘夷之□を態ト拵立 同所ニ而
        将軍様攘夷之 勅命を被下 若兎角被有之
       候節 直ニ御親征之筈ニ有之候處 将軍様
       江関白様より極御内々御心を被為附候ニ
       付 俄ニ御病気ニ而 供奉御断被仰上候間
120
       一橋様ヘハ攘夷之 勅命御持参ニ而江戸江
       御下り 将軍様ヘハ 態ト大坂御城へ御引被
       成候哉之取沙汰いたし候段噂之事
  五日
  六日
  七日  先月廿七日御用の御欽ニハ 支配所役々 当時柄ニ
      付 態ト出宿ニ不及候段申聞置候處 今日 三役中
  八日  相揃 欽ニ参候間 酒肴振舞候事
      今日手嶋五一郎旅行ニ付 離杯申受家内へ相見
      候事
121
 (九日・なし)
  十日
  十一日
  十二日 此間無事 今日配下へ之御達左之通
             荒尾手永地士
                 中嶋武兵衛
      右者今度 公武より 御沙汰之趣ニ付 禁闕
      為御守衛 用意済次第早々被差出 詰中士段之振合
      ニ被 仰付候 此段御申渡御請之程可有御達候
      以上       選挙方御奉行中
         五月十一日
122
      右之通 御家中御侍を初 其外子弟之面々 在中御
      家人又ハ子弟之内へ 数百人被仰付候處 実王朝
      連より拵立候而 京都へも手法なき三條様を取
      立 異国を止候哉ニ相聞候ニ付 東大之面々江ハ
      親類中より心を付 心有る面々ハすへて御断申
      上候 其中王朝家共浮浪人をも手引□引ニ而 人
      差を以 住江列より拵立候由なり 夫を上より被
      仰付候事ハ如何之思召ニ有之候哉 定而後道ハ
      御代法を可被附候事と被相考候事なり
       右武兵衛も 師役より心を被附 此方へも伺出
123
       候得とも 上より之御達を差留候儀相成不申
       併段々心有物ハ御断も申上候事ニ付 御断申
       上候ハヽ 取継禍申候段申聞候處 其後一同出
       京いたし候事
  十三日
  十四日 吉広加左衛門より養子力童縁談相済候答礼と
      して書状幷麻横上下一反送り来候ニ付礼状
      仕出候事
     一今日同姓新次郎御小姓役翻訳ニ被仰付候事
  十五日
  十六日 今日御封来候事
124
      将軍様 頃日大坂江御入城之處 当月四日尚御上
      洛之筈を御延引ニ而 直ニ摂海より蒸気船ニ被
      召 御東帰之御模様ニ付 禁庭より御心遣被遊
      姉小路様御下坂御取扱被成 江戸より者近来之
      取沙汰ニ付 将軍様を御心遣奉り 諸武場之諸
      生 板倉様も 禁庭へ強而御願取ニ而 大坂へ御
      出仕御取扱之筈之由申来候事
     一馬代八両平川亀右衛門江今日相渡候事
               預ニ而八百目

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