津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(304)寛永五年・日帳(六月八日~十日)

2020-07-29 15:26:50 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永五年六月)八日~十日

         |              
         |   八日         
         |
誅伐セシ長柄足軽 |一、江渡にて背御法度、御伐誅伐被 仰付候御小人長柄衆二蔵儀、爰元ニ妻子有之哉と、小頭共ニ申
ノ妻子の詮索   |                     〃〃
         |  付、相改候処ニ、妻子ハ無御座由申候、親親ハ式ア殿へ奉公仕居申由、小頭善兵衛・惣左衛門申
         |  候事、               〃
茶壷       |一、御奉行所ニ有之御茶壷、皆川隠岐治ア丞ニ相渡申候事、
         |               〃〃
誅伐セシ小人ノ妻 |一、御小人ノ各左衛門、江戸ニ而背御法度、御誅伐被 仰付候ニ付、爰元ニ妻子有之ハ、占め置かれ
子ノ詮索     |  候へ、得 御諚可申通、真下七兵衛所へ申遣候処ニ、小頭ともニ被申付、被相改候処ニ、妻子無
         |  之由、小頭■■弥左衛門申来候事、
         |  藤原惺窩か
冬ヘノ扶持    |一、妙寿院様之御息御冬様へ三拾人扶持方、寛永四年十二月朔日より永被進之候間、先御銀子壱貫目相
         |                                 (湘雲守沅)
         |  渡、右之御銀子は以来御扶持方之差引ニ成可申旨、京都にて東福寺之沅西堂・山田喜斎差紙取置
         |  相渡申由、野原善太郎罷下候ニ、佐藤少三郎・小野九右衛門方ゟ被申越候ニ付、善太郎書物を
京ノ相場     |  取、六月迄之御扶持方、京之双場ニ仕、大形可有御座通、熊谷九郎兵衛を以申上候処ニ、三拾人
         |  扶持は京着にて可相渡旨ニ候、併、右ニ御扶持方被進之時、銀子之御定ニ候也、其段喜斎ニ■可
         |  相尋旨被 仰出ニ付、右之趣尋申処ニ、御銀ニ而相渡申御約束ハ無御座候由、被申候間、則九郎
         |  兵衛ニ喜斎被申分、直ニ聞せ、其旨を可被申上通、申渡候事、

                  今日図書館へ出かけ、森鴎外が「興津弥五右衛門の遺書」を書くにあたり、典拠とした「日本随筆集成19」の「翁草・巻六」を
                  眺めていたところ、前の頁にまったく偶然にも「惺窩五十の歌」という項があり、一、妙寿院惺窩とあり驚いてしまった。

黒部儀太夫切腹  |一、黒部義太夫儀、切腹被 仰付候事、

         |              
         |   九日         
         |
矢箆巻ノ麻糸奥ノ |一、矢箆を巻申麻之糸、御奥御はした衆より申候を、藤田宗理処へ持せ遣候事、
端女ヨリ来ル   |

         |              
         |   十日         
         |
出水見分     |一、神西長五郎・竹内八兵衛予知被申越候ハ、水出候哉と存、罷出見申処ニ、先度之水ヨリハほそく御
         |  座候、若御尋も御座候ハヽ、此段可被仰上通、被申候事
鉄炮足軽諸所ノ番 |一、所々為御番、御鉄炮衆今度被 召上候請状の儀ハ、銘々与頭手前へ被召置、慥成ものにて候間、
         |                                         (正慶)
人トシテノ請状  |  被 召上可被下との与頭書物、証拠之段ノ内、證人之袋ニ入置申候也、右之内、加々山権左衛門
         |  与ゟ被 召上候星野半介請状ハ、此方へ被差上候、権左衛門方へ戻可申筈ニ候へ共、御金山ニ被
         |  罷居、留守にて候ニ付、先此方ニ、右之書物同前ニ召置候也、
早松茸ヲ見分セシ |一、さ松たけ有無見せニ、岩石山へ、寺田五郎兵衛遣候事、うさへハ、同御用ニ、本庄喜三郎遣、
ム        |                                        (財)
奥方綿ノ算用帳  |一、奥方綿之御算用之帳三冊ハ、払帳・諸方の目録壱つ、三宅勘三郎奉ニて被持出候を、才津惣兵衛
         |  算を入、則勘三郎ニ渡申由之事、勿論請払無相違由也、
惣積之目録    |一、惣積之目録、京上申候処、無別条候、当年ゟ先さき/\何ヶ年迄ニ御返弁相済候との書付、可
万事之覚書    |          (栗野)
         |  懸 御目旨ニ付、伝介へ申渡候、其上統暮御預米内、元り共ニ被返遣とのかき付、万事之覚書を
         |  一枚ニ仕、伝介ニ相渡候事、
         |    (長之)
平野長之忌明   |一、平野九郎右衛門、今日いミ明申由ニ而、登城仕候事、
         |           (守信)                    (大里、規矩郡)
長崎奉行通行ニ付 |一、式ア殿被仰候ハ、水野河内様近日御通りたるへくと存、申上げ候ヘハ、内裏御ちや屋の御さうち共
         |                       (へ脱)
キ接待      |  可申付旨ニ候、則横田権左・藤本猪左衛門を内裏遣可然由、式ア殿被仰付、右両人をよひ、明日
         |  ■可被参由申渡候、則御郡奉行をもよひ、右分ニ候間、可被得其意由、申渡候事、
         |                  御茶や       被申
道端等ノ修繕   |一、水野河内様被成御通ニ付、道・橋・損申所つくろひ、又ハ馬次之所ニ而、御目にかゝらさるやう
         |      馬ノくつなともこしらへ置、   それ/\ニ、各御百性以下も今程時分柄ノ儀ニ候間、まへかどより寄不被置様ニ、
         |  に馬寄置〇夜中ニよらす、万事〇無御緩可被申付旨、小崎與次兵衛・釘本半左衛門ニ慥ニ申渡候
         |  事、                       (規矩郡奉行)   (田川郡奉行)
         | 
大里之茶屋修繕ヲ |一、内裏之御茶屋損申ニ付、繕可被申旨、河田八右衛門ニ申渡候事
作事奉行へ命ズ  |

   

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■熊本の梅雨明けは? そしてコロナ第二波

2020-07-29 07:14:12 | 熊本

 鹿児島は昨日梅雨明けした。熊本も今日の天気予報からすると、「梅雨明け」宣言があっていいようなものだが、お付き合いがあって明日になりそうだ。
お付き合いというのは、熊本は「北九州」というくくりの中にある。長崎・佐賀・福岡・大分と熊本がそのくくりの中にある。
つまり、他の四県がまだ「今日梅雨明け」という状況にないことによる。
昨晩は久しぶりに雲一つない空に上弦に近い形の月が煌々と輝き、今日の快晴を保証しているかのようであった。そして寝苦しい晩に付き合わされた。
案の定、今朝は快晴、蝉の声がものすごく暑苦しいし、湿度がたかく不快感が半端ない。梅雨明けを明日?に控えた熊本である。

 おまけに、熊本では「コロナ」感染者が急増してきた。人の動きから来るもので、クラスターが発生した。
ここ数日続いており明らかな第二波であろう。
県南の水害の被災地では、連日降り続く雨がかたずけの邪魔をしてきたが、天気がよくなるといきなりの猛暑であり、それにコロナが追い打ちをかけることになった。
皆さんの体調が気遣われる。

 かくいう老人も、コロナと熱中症をさけて散歩もひかえ「巣ごもり」をせずばなるまいかと考えている。

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■文久三年「恕斎日録」(26)

2020-07-29 06:31:19 | 展覧会

186(八月)
  廿三日        (人脱か)
  廿四日 今日 今度在御家被召連候ニ付 御惣庄屋共会談
      之事 惣人数三百九人 遠御郡者省
      飽田・詫摩・上下益城・宇土・山本・山鹿 ・玉名之内三手
      永内田・小田・中富也 其外南関手当者・菊池・合志・阿蘇・南郷
       右会談之次第ハ達物帳に録
      右御家人鞆ハ物場におゐてハ重士之場にも被
      召仕候筈ニ而 諸役人段之御取扱なり
  廿五日 今朝京都之大早打着左之通
     一去ル十七日之朝 御所内甚騒敷候處 其内会津
187
      候より御屋敷江被知候ニ者 此節因州公より
      何某と申者を中川宮様江被差越 今度御親政之
      儀を御諫爭ニ相成候處 勅意御同意被遊候而 大
      躰事成候處 右御諫メ申上候人を親兵二十人斗
      りニ而打果候間 右之者共直ニ召捕 左候而 長
      州預之禁門を薩州江警衛被 仰付 会津・因           禁門(蛤御門)の変勃発
      州・加州・仙台等之諸藩より 禁裏を速ニ取堅 長州・土
      州を押出 十八日昼頃迄ニ双方合戦ニ相成候
      勢ニ而 此方様より者 内膳殿直ニ出陳ニ相成          細川藩出陳(主将・細川内膳忠顕)
      候 寺町御門ニ者御堅之御人数出 同日八半頃迄
188
      之事と申来 其後ハ未タ相分不申 尚一左右を相
      待候との事
       右之節三條様一味之公家四人 禁裡江御出           七卿落ち
       仕之處 直ニ御下り御役御免ニ相成 京都立退
       大佛ノ宮へ御集り 惣勢五百斗り有之 夫より
       長州江御下り之處 西ノ宮辺ニ而者其内三百
       斗りハ逃れ帰 漸二百斗りニ相成候との風聞
       右変動ノ次第ハ 長州人と禁兵と一味いたし
       三條様列を取入 陰謀を企 既ニ 行幸を奉進
       其機ニ乗し幕府を 御親征之功ミいたし居
189
       候處 右機密相破れ候ニ付 右之通御諫爭申上
       候ニ付、禁庭ニも御感悟被遊候ニ付 俄ニ御
       経営を御引替 三條様列御役御免被仰付候ニ
       付 惣勢三條様列を取囲ミ既ニ戦争ニ及候筈
       之處 三條様列之七卿一同京都を御立退候而
       事鎮り 是より京都之形勢一変いたし 先者
       御厚運目出度御事なり
       右之節此方より被差出置候禁兵之内 悔悟之
       者七八名ハ大佛辺より引返 宮部鼎蔵・轟翁助
       小坂平九郎列数人ハ長州迄附添候由なり
190
        右御親征ニ付 勅諚左之通
      今度攘夷為 御祈願 大和国行幸 神武帝凌
      春日社 御拝 暫 御逗留 御親征軍儀被為在
      其上 神宮 行幸之旨
       八月十二日
       右同十七日此方御留守居御呼出御渡
            御名
       行幸幷御親征郡儀ニ付 御用金拾万両加州・長州
       薩州・久留米七州外ニ加る 御申談調達有之様と
       の事
191
       右京都十八日立廿五日着十八日は既ニ事変ニ及候ニ付其以
       前欤 薩州早打通行之者より申出候ニ者右
       勅命之儀 攘夷者 直命被為在候得とも 親
       征之儀者 勅命ニ無之候との申出なり
     一右異変之節 諸藩よりハ 惣而甲冑ニ而取堅メ出
      立之處 内膳殿ニ者 禁庭御伺之事ニ而 いまた
      出陳之命無之候中ニ付 麻上下二而被罷出候ニ
      付 却而尋常ニ相見候との事
  廿六日
  廿七日 今日御城内御奉行中より 小子幷永屋猪兵衛
192
      列当りニ而 明日申達儀有之 両人之内御奉行所
      へ罷出候様御達之事
  廿八日 今日御奉行所へ罷出候處 御天守御武器拝見被          庄右衛門等御天主蔵の武器拝見
       仰付 御書付 御奉行より被相渡候事
       右連名中村庄右衛門・永屋猪兵衛・飯田熊之助
       友成貞之助
      右拝見四人同道 催合ニ而饅頭一重 羊羹四人当一重
      相携 御天守支配頭へ相贈 朝五頃より支配頭詰
      間へ罷出候處 頭幷御目附等同道小子共外ニ数
      人有之 御天守を初拝見 御召之御品々 御拝
193
      領錦御旗 蜀江錦 其外御鎧等誠ニ結構之御品な
      り 右鎧箱之中ニ 先年松巖亭様 此方屋敷内ニ          松巖亭=中村庄右衛門父・庄右衛門正彝
      生在候桐ニ而 榎津村甚蔵・杢七両人へ被仰付 御
      櫃を為造 御差上ニ相成候御品も拝見いたし 右
      御鎧ハ頼有公之御品を御写しニ而 岩下平吾列
      より製造被仰付候御品ニ而 尤結構之御品なり
       右拝見者 九月廿護日ニ支配頭より申来拝見
       之事 爰ニ記
  廿九日 御連枝様御二方様共ニ御上京被 仰出候段一
      統へ御達之事
194
       在御家人二百人御供被 仰付候間 申渡之上
       名前相達候様との御達
       御連枝様 来月七日御発駕之段 内分藤本より
       演達 直ニ御惣庄屋共へ内輪申□会談申付候
       事
     一薩摩より三郎様 来月十五日頃士席以上七百人          島津家久700名を率いて熊本通過、上洛の予定
      被召連上京 此元通行之段申来候事
  三十日   

      
       

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