津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■考えさせられること・・・

2020-07-07 17:19:37 | 新聞

   地元メディアでも取り上げられているが、今日の夕刊フジの記事は同様の内容を報じていて、大いに考えさせられるものである。
四国の四万十川と共に、その清流を並び称えられた川辺川に建設予定の「川辺川ダム」が、県民の大方の世論として、当時の県知事蒲島氏(今年四選)が取りやめを決定した。
ちょうど民主党政権時であの八場ダム工事のストップと共に、好感を持って迎えられた。
今回の9mを超す増水による人吉球磨地方の水害は、ダム建設を拒否した私たち県民の責任なのかもしれない。
その後の治水に関する県の積極的アプローチがないまま今日を迎えた。「クマモン人気」に乗った蒲島知事の不作為には大いなる批判が集中することであろう。
行政の不作為の一面がクローズアップした悲劇である。

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 「熊本水害、治水は万全だったのか 民主党政権が「川辺川ダム」の計画中止 専門家「ダムによる治水必要だった」 夕刊フジから引用

熊本県南部を襲った豪雨では、6日朝までに死者計22人、心肺停止18人、行方不明者11人など大きな被害が出た。氾濫した球磨(くま)川の支流では、九州最大級の「川辺川ダム」の建設計画が中止された。治水は万全だったのか。  “暴れ川”と呼ばれる球磨川では11カ所が氾濫、多数の被害が出た特別養護老人ホーム「千寿園」のある球磨村や、温泉地として知られる人吉市など流域で約6100戸が浸水した。  国は1966年、洪水防止のため川辺川ダム建設計画を発表したが、賛成派と反対派が対立し、2008年に蒲島郁夫知事が建設反対を表明、09年に民主党政権が計画中止の方針を示した。  関東学院大学名誉教授(河川工学)の宮村忠氏は「今回の氾濫で『ダムがあれば』と考えた人は当時の反対派にも少なくないのではないか。問題は記録的な豪雨だけでなく、豪雨に備える体制にもあった」と指摘する。  蒲島知事は5日、川辺川ダム中止の決断は県民の意向とした上で、反対の方針に変わりがないと強調した。大きな被害に「大変なショックを受けた」とし、「ダムによらない治水を目指してきたが、費用が多額でできなかった」と述べた。  「ダムによらない治水を極限まで検討する」「それをさらに考える機会を与えられた」とも話したが、具体的な方策に言及はなかった。  前出の宮村氏は、「人吉周辺は以前は人も少なく、ある程度の氾濫を受け入れて立ち上がることができた。しかし、現在は、交通インフラも整い、施設も増え、氾濫を受け入れる選択肢はない。だとすれば、ダムによる治水が必要だった。それぞれの時代に合った技術を適用すべきだということだ」と指摘した。  群馬県の八ッ場(やんば)ダムも民主党政権で工事を中断したが、その後再開。試験貯水中だった昨年10月の台風19号で治水効果を発揮した。

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■細川小倉藩(284)寛永五年・日帳(四月廿二日~廿四日)

2020-07-07 13:42:35 | 細川小倉藩

                      (寛永五年正四月)廿ニ日~廿四日 

         |     
         |    廿二日         
         |
         |一、大坂に而喧嘩仕御鉄炮衆西沢文右衛門尉与倉場九兵衛つれ下り申候御鉄炮衆、同与村田六右衛門
         |  尉・田中左兵衛、此両人今日差上せ申候、式ア少殿ゟ大坂御普請之御頭衆へ之御返事、其外之状
         |  とも相私渡、上せ申候事、
高月人留番所ニ迷 |一、西村善兵衛申候ハ、一昨日之夜、馬一疋参候を、御国之馬ニ而可有御座哉と存、今迄待居申候
馬        |       (御牧郡)
筑前ゟ馬主来ル  |  所、筑前黒崎ゟ、馬主之由申候而参候、如何可被仰付哉と申候、式ア殿ニたつね候へと、申渡候
         |  事、
入牢者弥市ニ作庵 |一、籠者下毛郡伊原村弥市薬、北村作庵ゟ取寄、持せ遣候事、
ノ投薬      |
         |    (可政)    (立成)
忠利狩ヲ罷メ椎田 |一、加々山主馬・道家左近右衛門ゟ、田川ヘハ御狩ニ不被成御座ニ、椎田ゟ直ニ、明日廿三日ニ被
ヨリ帰城セシム  |  成御帰城候間、可得其意由、書状被差越候事、

         |     
         |    廿三日         
         |
忠利帰城ニツキ風 |一、昨夜、右分ニ被申越ニ付、御風呂なとたき候へと申付候、其外諸奉行衆へ、今日 御帰城被成候
呂ノ用意ヲ命ズ  |  間、可得其意由、申渡候事、
中村茂助死去ノ届 |一、坂根九右衛門尉被申候ハ、中村茂助知行所へ罷越、見廻申候処ニ、茂助相果候跡ニ罷越申候、登
服忌       |  城仕申上候へ共、いミにて御座候間、奥村少兵衛迄申入由、被申候事、
忠利帰城ス    |一、殿様今日うさゟ御帰城被成候事、
鷹師ノ餌作手伝召 |一、山本二介手前ニ、餌作ノ手伝ニ、金蔵と申もの新参ニ、四月十八日ゟ被 召抱候、重而 御印取
抱        |  可申也、但、壱人ふちニ、御切米弐石五斗被遣筈也、
二石五斗一人扶持 |
鹿子ヲ生捕ル   |一、御狩場ゟ、鹿子七つ生捕ニ被成、此地へ持せ被成御越候、内弐つハ死申候、〆而五つ生候て居申
天守ノ下ニ入ル  |  候を、御天守ノ下ニ入置申候事、

         |
         |    廿四日         
         |
忠利鷹野ニテ叱リ |一、上野角左衛門・貫覚右衛門被申候ハ、前かと御鷹野ニ而、御しかりなされ候御馬印持之跡替か申
シ馬標持ノ跡替  |  付由、昨日椎田ゟ 御帰城之道中ニ而、被 仰付旨ニ候、左候而、与頭ハ今程何もの仕候哉と、
与頭       |  被成御尋候、私共申上候ハ、先御頭被成御定迄ハ、私共両人ニ而御ふちかた万之加判仕候様ニ
上野角左幷貫覚右 |  と、御奉行衆被申付通申上候処ニ、一段能候間、其分ニ可仕旨、 御意旨被申候事、
扶持方万ノ加判  |
         |        ゟ     ニ而
孕鹿途中死ス   |一、はらミ鹿うさ参候処、道死申候、此段岩田喜右衛門申上候ヘハ、かわをはき、明女房寰ニ可遣
肉ヲ明寰女房ニ与 |  旨 御意ニ候、則キ右衛門ニ申付候事、
ウ        |
忠利東花畠ニ遊ブ |一、東御花畠ニ被成御座候事
         |

 

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■肥後の手永と村(9)山本郡

2020-07-07 07:05:38 | 史料

                                       熊本藩領・手永図

山本郡

 1、正院手永(手永会所・正院村)
   ・正院村(西原、今古閑、向原、槁瓜、楠原、荷葉、山田)・智田村(桑迫)・西山村(辻村、藤尾)・小畑村(市尾、中尾)
   ・田原村(谷村、向原、中久保)・舟底村(中久保、道村)・北谷村(石久保、中宿)・平村(尾平、中谷、出目)
   ・鈴麦村(松尾、浦田)・中浦村(打越、土穴、古閑)・仁王堂村(小路、中谷)・梅木谷村(所尾、鞍尾、飛越、境野谷、坂下)
   ・内村(下田、大繁塚、小塚、松原、今岩)・大清水村(小清水、市安、砥石、今宿、小路口)・下大清水村(船沼、古閑、臼井、中尾、結村)
   ・色出村(諏訪尾)・平島村(藤嶋)・大塚村(小久)・宮原村(迫村、穢田村)・今藤村(吉部、正峯)・伊知坊村(出目)
   ・船嶋村(余田迫)・石野村(赤古閑、笠松、生部、堀内、小藤寺、平尾、砥用、太郎丸、今泉、五郎丸)・小道村(草場)
                                        
   ・加茂村(音楽司、中加茂、宗方、原部)・有泉村(出目)・小野村(出目)・鞍懸村(萩尾、古閑)・馬水村(鈴林)
                    木編、若しくは忄編に凡
   ・岩野村(馬場、道園、市場、小山、立、右田、長野、立野、後山、栗尾)・下馬水村(水浦、出目)・鐙田村(向坂、北中尾)
   ・木留村(中尾、外中尾、山口、町、茶尾)・円台寺村(高野、原古閑、六郎丸)
   ・小吉松村(仁田尾、下同丸、中屋敷、下馬、中西、堀内、古閑、中丸、乗尾、五郎丸、次郎丸、本七、埋原、前原)
   ・前原(仁田尾、下同丸、下馬、五郎丸、中屋敷、田中原、次良丸、安本、埋原、前原)・後古閑村 ・那知村
   ・辺田野村 ・上古閑村 ・下野村 ・平原村 ・大井村 ・石野村 ・仁王堂村 ・投刀塚村 ・薮迫村 ・舞尾村
   ・一木村 ・横尾村 ・二田村 ・芦原村 ・山城村 ・宝田村 ・味取村 ・植木町

           (一部重複しているのではないかと思われるが、引用資料のまゝとした)

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■文久三年「恕斎日録」(5)

2020-07-07 06:34:12 | 恕斎日録

      (二月十四日終日の顕光院・鳳台院の御通行に関する記述)

25
  (十四日続)              顕
    光院様御供申上 夫ヨリ直ニ河野簡斎而無迠
    鳳台院様御跡に付御供申上候事
     小川者御客屋前ニ而 御目見申上 片山ハ簡斎門
     前ニ而御目見申上 片山ハ直ニ御跡より中富江引
     移候事
    小川同道 御機嫌伺罷出候事
     献上物等差上 御小姓頭御用人挨拶 諸御用筋相
     勤候事 委細ハ達物帳ニ録 略之
    同日午中刻  御二方様御初輿 小川次郎助 御客
    屋御門前より御郡境迠御供
26
    小子者町口ニ而御目見申上候事
    此所より御行列御振合改
    鳳台院様者是迠黒棒権門駕被為召候処 金蒔繪
    長棒金かなぐ 猩々緋御駕覆被為召 是迠御孕ミ
    御行列之処 御引別れ本御行列 御銘々に而 御
    老女御先乗等有之 美々敷御引繕ニ相成 同役
       鳳台院様御跡ニ御附御供申上候事
    御本陳詰め御女中献立 午献立ハ二重ニ〆御次迠差
    出 菓子 吸物  硯蓋 蒲鉾 いか 幸茸 かすていら 伊勢海老
    大鉢 猪口いり酒 □さしミ ゆは 寿のり うど 猩々のり
27 
    大鉢 鯛めん腹赤燒・茸素麺  丼土筆ひたし
       右御老女

    菓子
    □ ふ吸物右同 大鉢さしミ・右同 同鯛めん右同 丼同様
    無硯蓋
       右並御女中

    膳 飯 汁丸干 坪ミそ・裏白 平鯛 皿三種・ひらニ受
       右惣御女中共ニ

    大鉢 盛受・さしミ右同 丼かすていら・竹の子・かまほこ 吸物硯ふたなし大鉢一ツ迄
       右御小姓頭以下御本陣詰衆

    膳 飯 汁 平鯛
28
       右同様

    肥膝御小立
     鹿子団子献立共 □麦切 湯手唐芋 にしめ二重
     御前様ノ節ハ団子をあんころニ引替 共外同様
    岩村御小立
     白玉餅白さとふあん にしめ二重 握飯にしめ添
     御前様ハ十七日ニ付、にしめ精進物ニ引かへ
     其外同様
     御小姓頭長谷川十之進 御用人福田源兵衛
     御奉行代
29
    一先日長谷川より廣嶋馳走之段 外聞への日申聞
     候処 今日同氏列より承り申候処、夫ハ表はかりニ
     而 実ハ一向御馳走無之 御供中ヘハ 切すし
     一鉢被下候迄ニ而 其外ハ総而旅籠自勘ニ而
     高直ニ附出し 左候而 大分金銀を取れ
     御供御女中も同様之由ニ而 路銀も手少ニ相成候
     由之処 右聊之馳走ニ而も 不怪歓 腹赤鯛 関素
     麺等ハ初而たへ 久振二枯腹を養申候由 長谷川江
     代物ハ如何と尋候処 御領内之御馳走ハ  殿様よ
     り被下 代物杯ハいらぬと申聞候処 飽迠たへふ一形
30
     有かたかり たべいりて立かね候間 才そくいたし候程ニ有之  
     さしミにいり酒をそへ出し候処 いり酒をたべ
     是者御国ざさ おいしひと申歓てたへ幾度も替りを取
     臺所より迷惑いたし候由ニ 跡より笑ひ候由也
     鳳台院様之方も 御女中とも馳走を歓 右同様なり
     併 今日者御精進ニ而 重之者等御持セニ相成候
     処 其移リニ御細工之御品ニ 幷銀の竿とも娘ニ
     被下候間 肥膝御小立 岩村御小立ニ而も 御女中
     ニ者御馳走之品ニ 不怪歓ひ飽迠たへ候上ニも唐芋抔ハ
                     歓か
     駕ニ入持セ参り 岩村白玉餅抔ハ不怪□たへ候而
31
     是も銘々持帰候由也 岩村光行寺へも御細工之御品
     被下候 同所之餅者    御方様へも御機嫌ニ相叶
     御持セ被成遊候由也
     今晩は同所ニ而 不怪御暖りと被遊 山鹿御郡境少し
     先より明松をともし候由 右ハ明松 御覧之思召ニ而
     態と御隙取セられ候由なり 其子才ハ南関ニ而長谷
     川より若暮ニ及候節ハ明松之用意ハ如何と被尋候に付
     此方より是ハ此元御昼ニ付 聊ト用意不仕候 乍併
     四千丁位ハ手當いたし置候段 申向候処 不怪□□
     ニ而 御昼場さへ 四千丁之用意不怪事と感伏ニ而
32
     直ニ御女中へ噂被成候間  御耳ニも打通 右之
     通被遊御覧候たる哉と奉察候事
      右 山鹿堤よりハ大造明松出し候由ニ而  御二
      方様御賞玩 御女中以下 不怪□行 感心いたし
      御国之御威光難有持候由なり 南関よりも少々加  
      勢いたし 夥敷相見候由なり
       極内分 拝承いあtし候処 明松者初而被遊
       御覧 あれハ何かと被遊御意候間 是ハ明松と申
       物ニ而 當所御郡代より御道筋明敷キ様御馳走ニ
       差出候段申上候処 被遊御感候由なり   

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