恕斎日録3月11日京都から帰国した細川良之助について、ご紹介する
細川護美 細川家12代齊護の第六男、長岡良之助
喜連川金王丸・同 左兵衛督紀氏・復して長岡良之助
從五位下左京亮、参与職、軍防事務局補、第二軍副総督
軍務副知事、熊本藩大参事、麝香間祇候、特命全権大使
元老院議官、高等法院陪席裁判官、貴族院議員、錦鶏間祇候
従二位勲一等、子爵、号雲海・簾雨
天保十三年(1842)壬寅九月七日熊本花畑邸に於いて生る、長岡良之助と称す、嘉永三年(1850)庚戊五月廿三日幕府
喜連川左馬頭煕氏ノ養子たることを許す、六月五日喜連川家に入り、金王丸と改め次いで左兵衛督紀氏と改む、
安政五年(1858)戊午三月廿四日養家と離別、長岡良之助に復し護美と名乗る、
明治元年(1868)戊辰二月晦日召により状況、翌三月朔日参与職、同二日軍防事務局補兼任、尚從五位下左京亮に
叙任す、閏四月四日従四位下侍従ニ叙任し、東征第二軍副総督に任ぜらる、同廿二日軍務官副知事を命ぜらる、
五月十二日東下し総督府を補佐し東国を鎮撫すべしとの命あり、同二年(1869)五月八日軍務官副知事を免ぜらる、
六月十七日桂宮警衛を命ぜらる、八月廿日藩制改革のため帰藩する旨申告、廿九日熊本帰着、
同三年(1870)六月一日熊本藩大参事となる、同四年(1871)七月十四日廃藩置県に付大参事を免ぜらる、
同五年(1872)二月廿八日海外遊学のため横浜出帆米国に赴き、その後所々転学、最後英京龍動に在て法学卒業、
同十一年(1878)の冬帰途に就き、十二年(1879)一月十日長崎着、同十一日熊本に到り、同十六日同所発、
二月十四日東京着、留学凡そ八年なり、同十二年護久財産を分与し、別戸籍願許可を賜い同日特旨を以て華族に
列せられ、麝香間祇候を命ぜらる、
明治三十九年(1906)四月八日薨ず、年六十五、東京品川六石に葬る、碑面従二位勲一等長岡護美卿之墓と題す、
同廿五日子爵細川利文の第二子・利功が後嗣となり名を護孝と改む