何気なく藩政時代の熊本所分絵図を眺めていたら、夏目漱石が「涼しさや裏は鐘うつ光琳寺」と詠った光琳寺に蛍光ペンでマーキングしていた。
よく見ると現在ある「光琳寺通り」は存在していない。絵図では西に光琳寺、東に武家屋敷の二区画であり武家屋敷は下通りに面している。
その西側の現・栄町通りをかっては光琳寺通りと言っていた。
ふと鏡子夫人の「漱石の想い出」(松岡譲・筆録)の記事を思い出し、本を取り出して読んでみる。
漱石と鏡子夫人の結婚式が行われたこの光琳寺の家は、裏手にはお寺の墓地が並び、あまりお気に召さなかったのかしばらくすると合羽丁に引っ越すことになる。
鏡子夫人の語る処によると、「この光琳寺町の家というのは、なんでも藩の家老か誰かのお妾さんのいた家とかで、ちょっと風変わりな家でした。この間熊本へ参りましてさがしてみますと、入り口が反対の下通りに面していて、熊本簡易保険健康相談所というものになっていて、新しい部屋のつけたしなどがありましたが、大体は元どおりでした」とあり、かってのその妾宅の部屋の数とそれぞれの大きさが記されている。
ちなみに、簡易保険健康相談所は大正11年に逓信局所在地7か所に設置されたという資料がある。
処が上記の記述によると入り口下通には面しておらずかっての光林寺通り(現・栄通り)にあったことになるが、当時は光琳寺の脇あたりを通る路地でもあったのだろうか。維新後武家屋敷は分割されたのかもしれない。
光琳寺自体は太平洋戦争で焼失した後再建されることもなかった。
今では光林寺通りと命名され、夜には歓楽街となるこの道はいつできたのだろうと思って、昭和4年の地図を見てみるとまだ存在していない。
終戦後の都市計画図に於いても存在しない。
絵図と夏目鏡子夫人のお話からすると、答えが出てこないが、娘婿の半藤一利さんに謎解きをしていただければと思うが鬼籍の人になられた。