17日の史談会で「鼻繰り井手」についてお話しする前に、いろいろ予備知識を入れておこうと菊陽町の地図を眺めたりしている。
私は6・7年前菊陽町を車でいろんな古跡を見ようと随分町内を走り回ったことがある。
飛行場から「鼻繰り大橋」を経て菊陽町役場の横を通り国道57号線バイパスからJR原水駅に至る大動脈が通る。
今話題の台湾の半導体メーカーが進出する工業団地あたりも散策した。初めてニュースを見た時、国道やバイパスあたりの交通渋滞を想ったことだ。
鉄炮小路沿いにある蘇古鶴神社や、入道水から大津へ抜ける高台にあるかって細川内膳家の領地であり家臣の子孫が多く住む地区には、忠隆の娘の子・西園寺公宣の屋敷(西園神社)などがあり大変懐かしい。
有名な「鼻繰り井手」がある久保田地区の白川沿い、鼻繰り井手のやや上流部にかって「九文の渡し」というものがあったと聞いていたが、ここだと比定できる場所の特定は出来ていないようだ。
平凡社の「熊本地名辞典」をひもとくと、久保田地区に中代村があり、そのなかの小字に九文村があったようだ。
渡しがあったというのは鼻繰り井手が出来る以前の事だから、道路の関係からするとまさしく鼻繰り井手がある場所がそうではないのかと考えたりする。
「肥後国誌」から次のような記事を引用してある。
合志竹迫城主 名和
旧合志隆重ノ室ハ宇土(城主)ノ伯耆顕孝ノ妹ナリシガ、其比宇土ト竹迫トノ往来
此所ヲ船渡ニシテ鳥目九文宛ニ定メタル故九文ノ渡ト呼シト也
この姫君は大変な美人で有るとともに大変な力もちだったという言い伝えがある。■夫婦喧嘩に書いているので参照願いたい。
結末は離婚となり、宇土に帰されることになるが、この渡しを再び通ったのだろう。そして宇土に至ることなく緑川に入水したとされる。
「九文の渡し」にこのような秘話が残るとは知らなかった。
一方では、名和顕孝の娘が大矢野城主・大矢野種基に嫁いだが、この時の嫁入り道具として持たされたのが「蒙古襲来絵詞」である。
熊本史談会の副会長である大矢野氏のお宅に引き継がれ、宮内庁のおさめられ御物となったが 、令和3年9月30日文部科学省告示第161・162号で国宝に指定された。
来年度あたり、熊本史談会で大矢野家所蔵の17mにも及ぶ「蒙古襲来絵詞・白描図」の展観が行われることだろう。
史談会会員の特権だが、一般にも広く公開される予定である。感謝。