津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■鼻繰り井手のあたり?「九文の渡し」

2022-12-09 08:30:58 | 熊本

 17日の史談会で「鼻繰り井手」についてお話しする前に、いろいろ予備知識を入れておこうと菊陽町の地図を眺めたりしている。
私は6・7年前菊陽町を車でいろんな古跡を見ようと随分町内を走り回ったことがある。
飛行場から「鼻繰り大橋」を経て菊陽町役場の横を通り国道57号線バイパスからJR原水駅に至る大動脈が通る。
今話題の台湾の半導体メーカーが進出する工業団地あたりも散策した。初めてニュースを見た時、国道やバイパスあたりの交通渋滞を想ったことだ。
鉄炮小路沿いにある蘇古鶴神社や、入道水から大津へ抜ける高台にあるかって細川内膳家の領地であり家臣の子孫が多く住む地区には、忠隆の娘の子・西園寺公宣の屋敷(西園神社)などがあり大変懐かしい。

有名な「鼻繰り井手」がある久保田地区の白川沿い、鼻繰り井手のやや上流部にかって「九文の渡し」というものがあったと聞いていたが、ここだと比定できる場所の特定は出来ていないようだ。
平凡社の「熊本地名辞典」をひもとくと、久保田地区に中代村があり、そのなかの小字に九文村があったようだ。
渡しがあったというのは鼻繰り井手が出来る以前の事だから、道路の関係からするとまさしく鼻繰り井手がある場所がそうではないのかと考えたりする。

「肥後国誌」から次のような記事を引用してある。
      合志竹迫城主            名和
     合志隆重ノ室ハ宇土(城主)伯耆顕孝ノ妹ナリシガ、其比宇土ト竹迫トノ往来
     此所ヲ船渡ニシテ鳥目九文宛ニ定メタル故九文ノ渡ト呼シト也

 この姫君は大変な美人で有るとともに大変な力もちだったという言い伝えがある。■夫婦喧嘩に書いているので参照願いたい。
結末は離婚となり、宇土に帰されることになるが、この渡しを再び通ったのだろう。そして宇土に至ることなく緑川に入水したとされる。
「九文の渡し」にこのような秘話が残るとは知らなかった。

 一方では、名和顕孝の娘が大矢野城主・大矢野種基に嫁いだが、この時の嫁入り道具として持たされたのが「蒙古襲来絵詞」である。
熊本史談会の副会長である大矢野氏のお宅に引き継がれ、宮内庁のおさめられ御物となったが 、令和3年9月30日文部科学省告示第161・162号で国宝に指定された。
来年度あたり、熊本史談会で大矢野家所蔵の17mにも及ぶ「蒙古襲来絵詞・白描図」の展観が行われることだろう。
史談会会員の特権だが、一般にも広く公開される予定である。感謝。

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■御侍帳・家紋から考える(65)

2022-12-09 06:52:29 | 家紋

     

        新・肥後細川藩侍帳【も】の部

森田角兵衛は、(南東24-11)森田一郎家、数人が角兵衛を名乗り人物特定は不可能である。家紋は「丸に片喰紋」

森脇小兵衛は、(南東24-14)森脇錠次郎家の3代目、家紋は「丸に橘紋」

森下儀太夫は、森本儀太夫の誤植か、加藤清正十六将の一人・儀大夫を祖とする(南東24-13)森本儀十郎家の4代目・森本一瑞 名は昌栄、
      儀太夫と称し、致仕して一瑞と号す。食禄百五十石、藩の軍学師範たり。文武に通達す。藩内を廻歴して肥後国誌三拾巻を著す。
      家紋は「」「隅切り立角に本文字紋」

森崎喜左衛門は、(南東64-101 *)森崎杢大夫家並びに(南東24-12)森崎萬五家に同名の人物が有り特定できない。家紋は「三つ鱗紋」「源氏香(花散里)紋」か

森井惣右衛門は、「細川家家臣略系譜」に名前が見えない。家紋は「丸に武田菱紋」

森 十左衛門は、(南東24-10)森 四郎家の7代もしくは8代目、人物の特定は出来ない。家紋は「違い角紋」

森 小平太は、(南東60-25 一代御中小姓)森 弥十郎家の8代目。家紋は「丸に六曜紋」

森 角右衛門は、御馬方 (南東59-23 茶・鷹・馬)森 角右衛門家の7代目・喜兵衛(角右衛門)。
       2代目四郎次郎は【田辺城籠城】した。家紋は「隅切垂れ角に六つ星紋」「陰の隅切垂れ角に六つ星紋」

門司源七郎は、(南東24-9)門司源七郎家の6代目。家紋は「   」

守田藤兵衛は、(南東64-107 *)守田孫之允家の8代目。家紋は「毬挟み紋」

        新・肥後細川藩侍帳【せ】の部
        新・肥後細川藩侍帳【し】の部

妹尾寛太は、(南東24-23)妹尾寛太家の7代、奉行副役を務めた。家紋は「違い矢筈紋」

小代平之丞は、本来は【し】の部にあるべきだが、当時は「せうだい」としたことにより【せ】の部に分類されている。
      小代氏は蒙古襲来を契機に肥後国野原荘に移住・定着したとされる。肥後の国衆として活躍した。
      (南東52-16)小代八郎家の6代と8代が同名、人物の特定は出来ない。家紋は一族の「団扇紋」
小代清兵衛は、同上分家、(南東52-17)小代常勝家の初代。家紋は同上。

千場八郎右衛門は、(南東24-22)千場次郎家の6代目、玉名郡郡代を勤めた。家紋は「隅立角に蝶紋」「二つ丁子丸紋」

関根俊助は、(南東24-20)関根 左五郎家の4代・関根叢蘭 名は之玄、俊助と称す。武道諸技に通じ、刀剣甲冑陶器を自製し、
      キュウ工に巧なり。又墨蘭、隷書を善くす。家紋は「隅立平角に違い鷹の羽紋」

関野万悦は、「細川家家臣略系譜」に名前が見当たらない。家紋は「七宝に花角紋」

関 角之進は、(南東24-16)関 角三家の7代目・新左衛門(角之進)。家紋は「丸に隅立一つ目紋」
関 素兵衛は、(南東24-17)関 繁家の5代目、託麻・飽託・山鹿・山本郡の郡代などを勤めた。家紋は同上。

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