家居屋敷も狭く不残の居住難成候ニ付以前の下屋敷を
拝借願有之候得共相濟不申右下屋敷の隣に明屋敷の
有之候を拝借被仰付候ニ付城善兵衛其外の家来も此所に
少々は引移候由権三郎十五歳ニ而知行無相違被為拝領
候上ニて右拝借屋敷直ニ拝領に相成其後南隣岡島頼左衛門
病死跡上屋敷嫡子十五歳未満ニ付被召上又其後北隣の屋敷南隣屋敷
添屋敷に奉願一ト屋敷に相成 按田壽助享保十七子年十三歳ニ而奉公に参元文四未年迄二十歳に
なり候迄勤候由其内ニ南隣の添屋敷ハ按田十六七の比北隣の添屋敷ハ夫より
ニ三年もいたし候而添屋敷相済候由此間ニ放生会の節馬も弐度出候由按田咄有之
此屋敷前今ニ丁幅廣く有之候は権左衛門屋敷の
節廣クなり候■聞傳候ニ付按田に承候處権左衛門
拝領已前より只今之通之由今平野太郎左衛門屋敷前也此屋敷権左衛門
替相後又々元之通に割南北の添屋敷も夫々ニ拝領
屋敷相成候由 右屋敷より年経帝(て)塩屋町御堀端の
屋敷ニ替相引移候 今溝口蔵人屋敷也御客屋裏の屋敷也
此屋敷にて権左衛門正英は乱心にて御知行家屋敷并
手取の拝領屋敷も一同ニ被召上此拝領屋敷には城善兵衛其外之家来召置候ニ付
貫家弐間ニ七之間の本家九尺に弐三間の掘立長屋冠木門有之
候由八木田新右衛門咄有之候
此添屋敷被召上候後直ニ八木田政之助ニ被為拝領候由右
政之助数年居住にて沢村弥平太と替相に相成候由
八木田新右衛門政之助嫡子咄にて有之候