津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「びわんくび」雑感

2022-12-26 08:16:36 | 熊本

 随分「御大工棟梁善蔵ゟ聞覺控」を取り上げてきたが、この中に清正の治水・利水の工事が行われた場所として「びわんくび」が登場する。
私の手元に何方が作られたのか記名がない史料があり、ここでは「渡鹿堰」だと比定されておられる。
ところがこれを裏付ける資料が見いだせない。私も地名辞典や、関係書籍、インターネットを通じて随分調べてみたが見出すことが出来ず「渡鹿堰=びわんくび」に懐疑的になった。
処が思いがけず10年前の白川大水害で被害を受けた白川に突出した場所に作られた住宅団地が、5~6mも水位が上昇して大被害を受けたがその報告書の中に「枇杷の首」の名前を見出した。■2012年7月12日の熊本水害と「びわんくび」
全く偶然で驚いたが、私はこの場所こそが善蔵が云うところの「びわんくび」だろうと考えた。
熊本史談会の12月例会では私の解釈を御披露した。

 昨日「隈本に消えた地名」(熊本地名研究会編著)を読んでいたら、菊池郡七城町(菊池市)菰入と言うところに「びゃんくび」があったことが紹介されいて、これには驚いてしまった。
川が大きく蛇行する土地の突端部をそう呼んだと記されている。
川幅30m・深さ3mあった「びゃんくび」は、川の流れは洪水などで変化し、現在は消滅し水辺公園になっているらしい。
しかしこの場所の治水工事が加藤時代に行われたという事はないようだ。

 今一つ、南阿蘇村にも「びわんくび」は存在するが、この工事も細川藩制期のものだとされ対象外である。
さて、善蔵さんが云うところの場所はいったいどこなのか、解決の糸口が見えない。

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■「加賀山家(伊丹氏)由緒略記」を読むー1

2022-12-26 06:53:44 | 史料

「奥田権左衛門由來記を読む」が終了したので、続いて奥田氏の祖・「加賀山家由緒略記」をご紹介する。
加賀山氏の祖は「伊丹氏」である。私も随分伊丹氏については文献調査などしてきたが、上記記録の存在は知らずに来た。
この記録をご紹介することで、伊丹氏研究の一助になれば幸いである。(出典:上妻文庫‐熊本県立図書館藏)

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               加賀山家由緒略記                           大正十二年十一月加賀山崇氏
                        先祖記録ヲ抄録ス

               傳云往昔加賀山氏ハ摂津国ノ産ニシテ藤原氏ノ末葉ナリ 本苗ハ
    伊丹氏ニテ代々摂津国伊丹ノ城ニ住居セリ 其
先正平十三年二鎌倉ノ
    執権北条相模守高塒カ代ニ當リテ紀州安田ノ莊司ト云者
    武名ヲ叛キケル時摂州伊丹ノ住人伊丹十郎兵衛重継
    楠正成ニ随ヒ鎌倉ヨリノ命ヲ受河瀬大夫抔云人ト同シク
    進発シテ追悼セシ事武家評林三楠實録等ニ評之併其
    後建武二年足利尊氏ゟ軍勢催促ノ御教書ヲ受ケ私ニ
    尊氏ニ内通シケル故正成何トナク居城千釼破ニ被召寄家
    子郎等(党)ニ命シテ被誅シ由其子伊丹大和守ト云フ人延文年
    
    中尊氏ノ長男義詮公ニ仕へ摂津国ノ地ヲ賜ハリ伊丹ノ城ニ住
    ケルカ貞治元年壬寅八月同国ノ守護代箕浦二郎左衛門
    等ㇳ固ク正成ノ三男正儀ト戦ヒ於摂津討死ス 又其後百余
    年ヲ経テ応仁元年将軍義政公ノ代ニ前管領細川右
    京大夫勝元・山田右衛門督持豊入道宗全ニ対シ不快ヲ
    抱キ世ノ大乱起ケル時伊丹何某ト云人摂州ハ元ゟ勝元分国ナレハ
    勝元ニ属シ武田大膳大夫国信ノ手ニ被附所々ノ合戦ニ赴キ
    其後ハ代々細川管領ノ家ニ従ヒ伊丹ノ城ニ在住ス 永正ノ
    頃ニ至テ細川家ノ長臣三好カ一族勢威盛ニシテ国々ノ
    合戦暫クモ止事ナク細川家ノ人々モ動モスレハ互ニ合

    戦有ケル時永正十七年庚辰二月伊丹但馬守ト云人伊丹ノ
    城ニ在テ敵ノ為ニ被攻防戦難叶野間豊前守ト同ク城中
    ニテ生害ス

                                                (2へ続く)

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